宝石の学園

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外が騒がしい。足音と歓声で建物が揺れている。 「…」 そんな喧騒の中、ただ天井のランタンを見つめて放心していた。 心臓がいつまでも鳴り止まない。 一体何が起こったんだ? 俺はあいつに押し倒され、肩の傷に唇が触れた。その数秒間、正直焦った。 だった10分前に起こった事件のことなど頭から一度消え去った。 冷たいあの正体不明で異常に整った容姿の人形のようなものが、あの瞬間だけとても熱かった。 熱くて、氷より冷めた目に生気が宿ったような…獲物を飲み込む蛇みたいな   「…あの野郎」 怖いと思うのが正しいのだろうが、 少し興味を引かれた。 あのまま血を差し出していたら、 どんな風にあの目や手が人間を食べてしまうのか。 「……」 良くない。良くない想像をしてしまった。 さっさと着替えて研究室に戻らないと。 「千秋様!」 なんだ、この騒ぎは。 目の前の廊下を人々が川のように流れていく。 キラキラ光る雪のような粒が宙を舞っていた。 手のひらにその輝く粒が落ちて溶けた。 すっと体に染み渡り、目の前に花火が弾けた。 体がふわふわして、浮き上がりそうに軽く 自然と笑みが溢れるような幸福感に満たされた。もっとその粒を手の中に集めれば、 もっと爽やかな朝の日差しを感じる。 これは、馬車の中で吸った黒い煙と同じ原理かもしれない。 しかしその効果は正反対で、心を軽く、爽やかにするもの。 もっと粒を集めようと足を踏み出すと、人混みに巻き込まれてもみくちゃになった。 千秋の名前を叫ぶ人々。 何故?ここでは有名人なのか? 「どいて!」 「うっ」 押しつぶされながら、なんとか流れの外へ飛び出した。だいぶ遠くへ運ばれて来たようだ。 宙を舞う粒をかき集めながら見知らぬ廊下を曲がると、階段があった。 「…ピアノ?」 階段の上の方から、ピアノの音が聞こえて来る。夢の中に誘われそうな柔らかく温かく力強い音色。こんなところで、誰がピアノを弾くんだろう。 足は階段を勝手に駆け上がった。 場所は分からずとも、音のする部屋を探した。 3階分ほど階段を上ったところにその部屋はあった。講堂だ。 迷わず重い扉を開いた。 ここの生徒全員分はあるのだろうという規模のホール。ステージ上にグランドピアノ。 スポットライトが当たっていた。 客席には誰もいない。 この音楽を聴いているのは自分だけだ。 ピアノの前に居たのは、長い銀色の髪を後ろで結んだ、女? …男にも見える。遠目ではわからない。 紫のニット帽を深めにかぶっている。制服でもなく、白いシャツと黒いパンツだけのラフな格好。ここの生徒ではないのだろうか。 性別も風貌も謎めいている。 音は鳴り止まず、神秘的なメロディーを聴いているだけで教会にいるような気分になる。 その音楽を美しいと思えるだけで、全ての罪が許されてしまうような。 最後の一音が響き、名残惜しく思った。 一つの曲が終わり、その手が鍵盤を離れた。 講堂が静寂に沈んだ。 「…誰かいるの?」 こちらに問いかける声が聞こえた。 思わず息を止めた。 初めて聞いたのは確かなのに、柔らかく繊細で聴いたことのあるような、すっと耳に馴染む声。 「そこにいるんだろ。出ておいで」 慌てて椅子の後ろに隠れた。 「どこにいるか当ててあげようか。後ろから3列目、右端から2つ目の席だ」 あたりを見回すと、確かに後ろから3列目、端から2番目だった。 逃げようとすれば逃げられるが、今はあの音の持ち主がどんな人か、どうやってあんな音が出せるのかが気になって仕方なかった。 とはいえ、また見ず知らずの相手に近づいて失敗するのは避けたい。 とりあえず、声だけで返事をする。 「こんなに暗いのに、見えるん…ですか?」 「人より暗闇に強いってだけ。それよりいつまで隠れてる気?」 「だって、なんか怪しいから」 「僕が怪しいって?心外だな!僕は公認の音楽科講師なんだから」 「本当かな…」 「じゃあ青年、君は何をしにここに来たんだ?何に釣られてここに来た?」 トン、と一つの音が鳴った。 「このピアノの音だろう。 それが僕の力を表してるとは思わないか」 「…」 音楽の先生か。俺は知っている。 彼らはいつも少し狂っていた。 そして、音楽にしがみついて、たまに突き飛ばしたり怒鳴り散らしたり泣き喚いたりしながら それでも音楽に酔っていた。 小さい頃から、俺の隣にはピアノがあった。 それを教える俺の先生。 ピアノを弾く先生は、いつも監視カメラのように付き添っていた母親の目を気にして多くは語らなかった。 それでも、その先生の音を通じて俺は外の世界と繋がっていた。 言葉や目に見えるものでは伝わらない、音でしか分からないものを、先生は教えてくれた。 だから、ピアノを美しく弾く人を無条件に信じてしまう。言葉よりも見た目よりも、なによりもその人の中身を見せてくれるのが、その人の音だから。 ほんの少しだけ椅子の背もたれから顔を出してみると、ステージ上からひょいひょいと手招きされる。 「こっち来な。教えてやるから」
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