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無敵なあなた
ずっとあなたを追っている。
気が遠くなるほどの歳月、とは僕の感覚。
しかしあなたにとっては・・・半分以下だ。
ある日あなたの過去を聞く機会がありました。
辛い、という言葉もぬるい壮絶な出来事の数々に、僕は言葉を失いました。
列車の接近を知らせる踏切で迷ったそうですね。
留まるか、踏み出すか。
僕の産まれるずっとずっと前のお話です。
あなたは留まった。
自分自身の意思もあったでしょうが、あなたの娘が一言、「嫌だ」と引き留めたから。
おかげで僕は産まれました。
今、生きています。
話してくれたのは母です、おばあちゃん。
優しくて、時に厳しいおばあちゃんでした。
愛情と真心の大切さを、行動で示してくれたおばあちゃんでした。
足腰の弱ったあなたの両手を、向い合わせで引いて歩いた・・・ゆっくりと。
その時の「ありがとね」という言葉と、笑顔が忘れられません。
こちらの台詞です。
お金の余裕なんか無かったはずなのに、お年玉は大学生になってもくれました。
「二十歳そこそこはまだ子供だよぅ」
方言混じりに電話の向こうで笑いましたね。
正直使い道に困りました。
有り難すぎて。
そんな僕も成長しました。
あなたも歳を重ねました。
当然ですね。
時間は無慈悲なほどに平等ですから。
頑張り続けた膝は、軟骨がすり減り、外側へ湾曲していた。
楽しみだった甘味も、糖尿病でほとんど食べられなくなっていた。
耳も補聴器無しではろくに会話もできなくなっていた。
恩返しで助けたかったけれど、住んでいる場所が遠過ぎて叶わなかった。
だけどある時、好機がありました。
僕達母子がおばあちゃんの家を訪れた折り、我が家へ招待する事を決めて、僕は同伴しました。
飛行機の乗り降り、車への誘導、玄関の登り、廊下の移動などを手伝わせてもらいました。
あなたはどこか申し訳なさそうな表情でしたが、僕は嬉しかったんです。
糖尿病で体温の下がったその手を、なるべく暖めた僕の手で包んで、共に歩く事が。
僕があなたの役に立てた事が。
でも、それが最後でした。
誤嚥。
それがあなたの命取りになってしまいました。
一命を取り留めましたが、酸素の足りない時間が長過ぎて脳機能がほぼ停止してしまいました。
僕が最後に見た、生きたあなたの姿は・・・点滴の管と生体モニタの電極がまとわりついていました。
もう話せない。
もう動けない。
もう伝わらない。
もう伝えられない。
医療関係者になっていた僕は、知識で理解してしまっていました。
でも諦められなかった。
手を握った。
耳に呼び掛けた。
ゆっくりと額を合わせた。
『どこかのドラマの様に、どこかのドキュメンタリーの様に、反応してくれ』
と、願いながら。
残酷なものです・・・現実とは。
数ヶ月後にあなたはこの世を去りました。
バタバタと喪服などを用意して飛んで行きました。
それでも通夜には間に合わず、顔を見たのはお葬式の日でした。
僕は親族席で、壇上に席が与えられました。
会場が思いの外広かった事を覚えています。
ただ、それだけです。
あとはもう、式が始まる前から止まらない涙が全てを滲ませてしまって、良く覚えていません。
おばあちゃん。
こんなに頂いた恩を、どうすれば良いのですか。
この大きな大きな恩に、どう応えれば良いのですか。
小さな壺に納められてしまったあなたに、胸の内で尋ねました。
答えが無いと承知の上で。
数日、あなたの家に泊まりました。
その時、母は静かに教えてくれました。
あなたが我が家へ来た時の話でした。
母に言ったそうですね。
「あたしは幸せだ。満足だよ」
って。
こんなに無敵な言葉を、後にも先にも僕は聞いた事が無い。
恩返しも何も、あなたは求めちゃいなかった。
もう満たされていた。
僕の倍以上歳を重ねて、倍じゃきかない苦労を重ねて、最後にそう言うんです。
本当に無敵です。
おばあちゃん。
大好きなおばあちゃん。
あなたは僕の憧れです。
大きな大きな目標です。
無敵なあなたの、歩み去った足跡を、僕は見つめて生きていきます。
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