1章 妖怪のいる街

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1章 妖怪のいる街

「それで、朝田は通り魔から逃げ切ることができたってわけか」 今日の講演会のレジュメに目を落としながら、七海は尋ねる。 いつもは半分以上が空席の大講堂には立ち見の客までいるようだ。朝田は講堂に入ろうとしたところで七海に捕まり、無理やり隣の席に座らされていた。 「……まぁ、そういうこと」 朝田はじろっと七海を睨む。 通り魔に襲われた次の日は流石に学校に行く気はならなかったが、以前から楽しみにしていたこの講演会には何とか足を運ぶことが出来た。 「それは災難だったね、無事で良かった」 七海は顔を上げないままだが、気の抜けた返事を返してくる。しばしの沈黙が流れてから、急に顔を上げてこちらへ微笑みを向ける。 「朝田が無事で、本当に良かった」 七海のこの笑顔を見ていると、どうでも良くなってくる。朝田は同じ学部の女子生徒が、七海のこの笑顔と色素の薄い髪色を指してエンジェルスマイルと騒いでいたことを思い出す。流石に天使とは思えないが、この顔をされると嫌味の一つも言えなくなる。 「それにしても、人気だな」 朝田は話題を変える。コロシアムのように階段状に座席が配置された大講堂が埋まっているのを見るのは、入学式ぶりのことだ。 「ベストセラー作家の講演会だからね、 普段講義に出ていない奴らも来ているよ」 七海は大げさに周りを見渡してから言った。 朝田も七海に倣って左右に目を向けるが、ある人物で目が留まる。その様子に七海も気付いたのか同じ方向を向く。 「お、黒木花純さんか。 いやー朝田くんも趣味がいいねぇ」 朝田の肩をぽんぽんと叩きながら、にやにやと笑っている七海を、とりあえず無視する。 黒木花純は1年後輩だが、入学当時からその見た目から噂される存在だった。七海以外にほとんど親しい友人がいない朝田でさえ、その名前は何度も耳にしていた。黒木花純に彼氏がいないのはこの大学の七不思議の一つだ、という話まで聞いたことがある。 「かの眠り姫もベストセラー作家の話を聞くために目覚めたんだろうね」 黒木花純はここ3か月は週に1度くらいしか大学に来ておらず、陰で眠り姫と噂されていた。 あまり大学に現れない彼女はミステリアスな存在としてむしろ男子生徒の間では人気が高まっているようだ。数メートル先では黒木花純の周りに座った生徒たちが落ち着かない様子でチラチラと彼女の方を覗いている。 「可哀そうにな」 朝田は心底同情する。 この講演会もただ一人の聴衆として話を聞きたいだけなのに、そこにいるだけで注目を集めるというのは本人にとっても嬉しいことではないだろう。 朝田にとっては人の注目を集めることは恐怖でしかなかった。最も自分が誰かに注目されることはないのだろうが、と自嘲気味に考える。人付き合いに積極的ではない朝田に絡んでくる者はほとんどいない、七海を除いて。 「そうだねぇ、やっぱりこういうときはほっといて欲しいものだよね」 言い終わるより先に後ろから「七海くーん」と女生徒から黄色い声が投げかけられる。後ろを振り向いた七海は手をひらひらと振りながら、こちらに向き直りながら言った。 「ほっといて欲しいものだよねぇ」 講堂の電気が落ち、席は薄い闇に包まれる。コロシアムの最深部である講壇のみが灯りを放っている。暗闇の中でもざわざわと騒がしい聴衆の前に、和服姿の初老の男性が現れ、会場は大きな拍手に包まれた。 「初めまして、皆さん。作家の堂森と申します」 よく響く声で堂森は会場に向けて挨拶をした。和服を着た堂森の姿は、大学という場所では非現実的で、どこか妖艶だった。 「堂森先生かっこいいね」 七海は朝田にだけ聞こえるように顔を近づけて囁く。「そうだな」と朝田は軽く返事をして、前に向き直る。 堂森が話し始めてから、先ほどまであれほど騒がしかった講堂内は水を打ったように静かになってしまった。 「――私は創作をすることは人の感情を描くことだと心掛けています」 作家としての堂森の話は朝田にとっては未知の世界だったが、その言葉を聞いているうちに作家としての苦悩や喜びが伝わってくるようだった。 不思議な心地よさがある声だと朝田は素直に感心する。聞いていると、だんだんと身体が浮き上がるようなそんな浮遊感を感じる。 不味い――朝田は瞼が落ち始めるのを感じていた。 昨日の夜、通り魔に襲われてから、心臓が高鳴ってしまいほとんど睡眠をとれていなかった。普段から不眠症気味だが、昨夜は眠りにつくまでずっと緊張状態だったこともあっていつもより疲れているのかも知れない。 「――私の作品では妖怪をモチーフにしたものも多いですが、妖怪は人の感情を糧にしているとも考えられます。驚かせるのは恐怖という感情を喰らうためということですね。私が作品を作り続けるのも、読者の感情を揺り動かしてそれを喰らうためかも知れませんね。そういう意味では、私も妖怪かな」 堂森のジョークに講堂は笑いに包まれている。 いつもはこういう場面で率先して笑うはずの七海の声は不思議と聞こえてこなかった。笑い声が収まるのを待って話し始めた堂森の声を聞きながら、朝田は意識を手放した。
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