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「きっと、この足跡は母親だな」
父がなぜかニコニコしながら言った。
「どうしてわかるんだ?」
私が尋ねると、父は崖の方を指差した。
私は足跡が踵を返した場所。つまり、その足跡の主が飛び降りようとした崖の先端に立った。
下には雪を被った枯れ木のさらに奥から、ゴーという滝のような水の音がする。前日に降った雪のせいで水量が増して、いつもよりも激しい音で、ここから自殺しようとする者を威嚇している。
立っているだけで身震いがする。
母の墓参りに父と向かう途中であった。
雪の上に一人の大人の人間の足跡があるのを見かけ、「また飛び降りたのか」と母の命日を侮辱された気分になり、ため息が出た。
しかし、足跡を辿って少し先へ進み、自殺の名所として有名な崖に来ると、その足跡は崖の先で踵を返して、元の道を戻って行ったのだ。
その足跡に私の足を重ねて見る。一体どんな気持ちになれば、こんな所から飛び降りる勇気が生まれるのか? と少し足がすくんだ。足跡の主も、怖気付いて逃げただけではないのか?
「あっ」
私が崖の向こうに見えたモノに声を出すと、後ろの父がまた笑い出した。
「見つけたか」
その足跡の主も、私のようにそこからそれを見つけ、踵を返して元来た道を帰って行ったのか。
なるほど。
「でも、なぜ、母親なんだ? 父親の可能性だってあるだろ」
私が父に尋ねると、父は帰りの足跡を今度は指差した。
「行きの足跡より、帰りの足跡の方が歩幅が大きい。きっと、彼女は家で寝ている子供の元に走ったんだ。だから、母親なんだ」
そうなのか。
「母親ってのは、そう言うもんだ」
父は、そう言い、穏やかな笑みを浮かべた。きっと生前の母のことを思い出しているのだろう。
私に母の記憶はない。
私がまだ幼かった頃に亡くなったからだ。
ただ、今の父の笑みを見るかぎり、きっと私も母から、無償の愛を受けていたのだろう。眠っている幼い私に子守の唄なんかを歌ってくれたりしていたのかもしれない。
パァン!
遠くから猟銃の音がした。
谷に反響したその大きな音で、崖の向こうで眠っていたキツネの親子はビクッと起き上がって、森の中へ逃げて行ってしまった。
「俺たちも行くか」
父がまた墓の方へ歩き出した。
父の笑みのせいで、私はまた母に会ってみたくなってしまった。
父は楽しそうに歌を口ずさみながら雪道を歩いていく。私も、会ったことのない母の事を想像しながら、後ろからついていく。
無意識に母を思うと、誰に教わったでもない優しい子守唄のようなメロディーを鼻歌で奏でていた。
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