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2022.キスの日短編
私の恋人は猫のようだ。
こちらが触れたい時に、そこにいなくて、どうでもいい時に寄って来る。
気ままで、自由で、気が付いたら、心の隙間にするんと滑り込んでいる。掴みどころのないところが猫にそっくりだ。
*
「今日、スーパー寄って帰るけど、何か買って来てほしいものある?」
仕事―というか、次の作戦の下見に―行くネズが靴を履きながら首だけ振り返って言う。
「1000。」
「あぁ、あの夢が叶うってやつゥ?」
ネズがくすりと笑う。
「旦那、ミーハーだなぁ。すぐ流行に乗っかって。」
「だって、気になるじゃないか。皆夢が叶ったとか、すっきり起きられたとか言ってるし。」
笑われたのが少し悔しくて、思わず、ムキになって返してしまう。
私も端からその飲み物の世間で言われている効能を信じているわけではないが、評判を聞いているうちに気にはなっていた。
「腸内環境を整えるのもいいと思ってね。私ももう歳だし。」
「そうやって都合のいい時だけ、歳を引き合いに出す!」
ネズが肩をすくめて言う。
「そんなに効くモンかねぇ。まぁ、ついでだから買って来てやるよ。―あっ。」
突然、声を上げると、ネズは慌てて靴を脱いで部屋の中へと戻る。
「忘れ物?」
「エコバッグ忘れた!」
どうやら、リビングに入ってすぐ見つけられたらしい。エコバッグをひらひらさせながら騒々しくネズが戻って来る。
「行く前でよかったじゃないか。」
再び、靴を履いている背中に声をかけた。あまり、ヘマをしない彼が時々ドジを踏む姿を見ると、嬉しくなる。
笑ってしまいそうになるのを堪えていると、おもむろにネズがふり返り、口元に口付けを落とす。一瞬だった。やっぱり、プロの殺し屋だ。もし、これが仕事中であったなら、私は心臓を一突きされていただろう。
何事もなかったように、ネズは「いってきます。」と言い、颯爽と家を出る。
残された私はしばらく、玄関に立ち尽くし、年甲斐もなく幸せの余韻に浸っていた。
やっぱり、彼は猫に似ている。無自覚に私の心をかき乱してばかりだ。
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