Chapter1. 『在りし日の追憶』

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――覚醒しつつある意識が最初に感じ取ったのは、温かな光と誰かに頭を撫でられる感触だった。 その心地よい感覚にしばし身を委ね、意識をまどろみの中に沈ませる。 そうやってこちらがうとうとし続けていると、頭を撫でていた手は、やがて顔の輪郭を辿って頬に触れてくる。 本当はもう少しまどろんでいたかったのだが、ディアナを起こしたくないという気持ちと、早く目を覚まして欲しいという願いが入り混じったような指先に意識を揺さぶられ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。 ぼんやりと霞む視界の隅に映る人の顔をはっきりと見たくて、何度か瞬きを繰り返す。 ごろりと寝返りを打ち、ようやく焦点が定まった目に映ったのは、誰よりも愛おしい夫の顔だった。 「……おはよう、ヴァル」 「悪い、起こしたか」 「うん、起こされた。でも、そろそろ起きなきゃいけない時間なんだから、気にしないで」 部屋に射し込んでくる陽の光の角度からして、むしろいつもの起床時間よりも遅いくらいなのかもしれない。 とはいえ、今すぐ身を起こすのはほんの少しだけ辛い。 全身を包み込む倦怠感に動けずにいるディアナの頭を、ヴァルが再び撫でてくる。 「……無理して起き上がらなくていい。もう少し、横になっていろ」 「でも……」 あまりぐずぐずしていると、彼が先にベッドから抜け出してしまう。 そして、さっさと身支度を整えて朝食を済ませ、待ち構えている仕事に少しでも早く取りかかろうとするのだろう。 そうしたら、せっかく一緒に過ごせる時間が少なくなってしまう。 (最近、前よりも忙しそうだから、せめて食事くらい一緒に摂りたいのに……) 夏に獣人が元凶である事件が発生したため、ヴァルはずっとその事後処理に追われている。 バスカヴィル国との会議で彼が挙げた功績のおかげで、ノヴェロ国側が一方的に責任を追及されることはなかったが、それでも全てが解決したわけではない。 未だに事件の首謀者であるフェイやセオから有益な証言は得られていないし、ナディムは行方を眩ませたままだ。 先代のノヴェロ王妃でありサクリフィスでもあったラティーシャへの事情聴取も、進展が見られていないらしい。 それどころか、一刻も早く息子を返せと要求されているみたいだ。 しかも、それだけではなく、何か他に対処しなければならない案件でも増えたのか、以前にも増してヴァルと顔を合わせる時間が減ってしまったのだ。 それこそ、ここのところは朝と夜くらいしか共に過ごせていない。 唇を尖らせて小さく唸るディアナの額に、彼がそっと唇を寄せてきた。 「……いきなり起き上がったりしたら、身体が辛いだろう」 若干気まずそうなヴァルの指摘に、思わず目を逸らす。 涼しくて過ごしやすい夏は終わりを告げ、もう秋に突入している。 つまり、彼に指輪を贈られてから、もう二ヵ月近く経つ。 だから、夫婦の営みもあれからそれなりに重ねているわけだが、やはり散々抱かれた後の疲労感はなかなか慣れないものだ。 そう、たとえば今のように。 (でも、あれは私にも責任がある……うん) 昨晩、ヴァルは途中で中断してくれようとしたのに、もっとと強請(ねだ)ったのは他でもない自分だ。 昨夜の出来事をまざまざと思い出してしまい、頬がじわりと火照ってくる。 早く頬の熱が引くようにと内心念じながら、そろそろと視線を彼へと戻す。 「そ……それじゃあ、もうちょっとだけこうしていても、いい……?」 ヴァルにぴっとりとくっついて甘えるように頬を擦り寄せれば、彼はふわりと目元を和らげた。 「……最近、あまりお前に構ってやれなかったからな。そうしてくれると、俺も嬉しい」 ふと、ヴァルに耳朶を食まれ、ぴくりと肩が小さく跳ねる。 そうやって甘噛みを幾度も繰り返されると、くすぐったさと共に温かな気持ちで満たされていく。 (甘えられている、のかな) 今まで、彼がディアナに甘えてくることなどほとんどなかった気がするのだが、こうして肌を重ねるようになってから、こういった仕草が度々見受けられるようになったのだ。 まるで心を預けてくれているみたいで、喜びが胸の奥底から湧き上がってくる。 (だって、甘えてくるってことは……それだけ、頼ってくれているってことだもんね) 確かめるようにヴァルの素肌に触れてから、彼の漆黒の髪に手を伸ばす。 そして、ヴァルがしてくれたように、こちらも彼の頭を撫でる。 互いに裸のままシーツに包(くる)まり、じゃれ合っていないで、妻ならばヴァルを叱りつけてでもベッドから出て、朝の支度をするべきなのだろう。 だが、こうして甘え甘やかされると、ついついあともう少しだけと言い訳をして、彼と二人でシーツの波間にたゆたっていたくなる。 「ヴァル」 「ん?」 「……私、旦那様をいつまでも引き留める悪い奥さんで、ごめんね?」 「普段のお前は仕事に理解があり過ぎるんだから、たまにはいいだろう」 「だって、仕事は大切じゃない」 「……あまり文句を言われないと、逆に俺が寂しくなる」 「そういうもの?」 「そういうものなんだ」 不貞腐れたように言い放つヴァルに、くすりと微笑みかける。 「なら……仕事が終わったら、今夜もまた甘やかしてください。旦那様。あ、ヴァルのことも甘やかしてあげるから、安心してね」 「本当に、いい性格をしているな。お前は……」 「嫌いになった?」 「このくらいで嫌いになっていたら、六年もお前のことを追いかけていない」 敵わないと言いたげに苦笑いを浮かべた彼に唇を塞がれ、静かに目を閉じる。 不意に秋の穏やかな日差しが雲に遮られ、朝になってもベッドの上で戯れるディアナたちを、太陽までもが見逃してくれているみたいだった。
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