Chapter1. 『在りし日の追憶』

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あれから、数時間後。 しばし口づけを交わし合ってから急いで朝の支度を済ませ、つい先程仕事に向かったヴァルを見送ったばかりだ。 食後の紅茶を楽しんだ後、一人になったディアナは図書室へ足を運ぶ。 本棚からノヴェロ国の歴史や法律に関する本、新聞の切り抜きをファイルしたものを数冊抜き出し、どさりとテーブルの上に置く。 (……本当に、私の視野は狭い……) 先日の一件で、嫌というほどその事実を突きつけられた。 どうして、獣人ならばこちらの命を狙ったりしないなどと、思い込んでいたのだろう。 自分がこれまで出逢ってきた獣人たちが、同族に盲信的といっても過言ではない態度を取っていたから、獣人は皆そういうものだと無意識のうちに先入観に囚われていたのだろうか。 (命を狙われている以上、そんな甘い考えは捨てなきゃいけなかったのに……) おそらく、ここでの平和過ぎる生活に勘が鈍ってしまったのだ。 ここでは、バスカヴィル国にいた頃みたいに神経を尖らせる必要はない。 無闇に疑わなくても何の支障もなく日々を過ごせるし、周囲から向けられる感情も好意的なものばかりだ。 しかし、このままではいけないのだ。 また同じ過ちを繰り返さないためにも、改めてこの国について――ひいては獣人について知らなければならないと思ったのだ。 フォルスに関して調べ物を行った時と同様、今一度自分の認識と記録に残されている情報を照らし合わせなければならない。 春に起きた事件を皮切りに、いくつもの謎が浮上してきた。 その最たるものが、やはり結界の実情だ。 (――ナディムとセオは、ノヴェロに住んでいたの? それとも、ピアーズみたいに裏社会で生きていたの?) もしも、今までノヴェロ国で暮らしていたのだとしたら、どうやって結界を抜け出してきたのか。 もしも、ピアーズと同じように裏社会で生活していたのだとしたら――。 「……どうやって、バスカヴィルに連れてこられたというの?」 ぽつりと、呟きが零れ落ちる。 これまで詮索するべきではないと思い、ピアーズにバスカヴィル国に連れてこられるまでの経緯を詳しく訊いたことがない。 本人は、母親が何らかの方法でノヴェロ国から攫われ、バスカヴィル国の地で自分が産まれたのだと、いつか話していた。 でも、彼の母親はどのようにして拉致されたのか。 結界があるというのに、何故人間たちはそんなことができたのか。 ノヴェロ国に嫁いだサクリフィスが、一枚噛んでいたとでもいうのか。 そういった疑問を解消するために、こうして歴史書や法律関係の本、大きな事件を取り扱っている新聞記事を読み漁っているのだが、今のところ答えらしきものは見当たらない。 あの事件以降こつこつと読み進めてきたから、今目を通しているものが読み終わったら、この城の図書室に保管されている、手がかりになりそうな文献は全て読破したことになる。 (これで駄目なら――) 獣人の誘拐は国が認知していないか、あるいは黙認しているものなのだと、考えざるを得ない。 そうしたら、残されている手はノヴェロ国の重鎮に慎重に問い質すか、あるいは――。 「……ピアーズ……」 自分自身のことなのだから、間違いなくピアーズは真相を知っている。 それに彼は情報屋だから、自分と似たような境遇の獣人が連れ去られてきた経緯も、おそらく把握しているのだろう。 今までは、他人の事情に無神経に踏み込むべきではないと触れてこなかったが、もしかしたら先日の一件で、ピアーズの同類が巻き起こした事件に巻き込まれたかもしれないのだ。 そうだとしたら、もう無関係とは言い切れない。 ヴァルがバスカヴィル国を訪問する機会が訪れたら、その時はピアーズからその辺りの話を聞き出さなければならない。 いや、その機会がなかなか得られないようなら、己の意志で彼の地に踏み込まなければならない。 (私だけの問題じゃないんだから……) 自分だけの問題ならよかったのにと、きゅっと唇を噛み締める。 ディアナの命を欲する人物は、ヴァルのことも狙っている。 本命はあくまでもディアナみたいだが、彼だってもう何度も危険な目に遭っているのだ。 そろそろ、決着をつけなければならない。 だが、ふとした瞬間疑問に思うのだ。 ディアナの考えが甘かったばかりに、周りにも迷惑をかけてきたが、こうして見方を改め、冷静に状況を見つめ直す時間があるのはどうしてなのか、と。 こちらの命を本気で狙うのであれば、最初の事件から魔女の事件が発生した時と同様、間を空ける必要はない。 ディアナの命を奪い取れるまで、間なしに次々と刺客を送り込めばいいだけの話だ。 それなのに、実際にはいつも空白の期間が存在する。 さながら、湧き上がってきた疑問を解き明かす猶予を与えられているみたいだ。 (まあ……もしそうだとしたら、私は何一つはっきりとした答えは見つけられていないことになるけど) 予想がついたとしても、確たる証拠までは掴めていない。 ならば、それはあくまでも推測の域を出ない、机上の空論に過ぎない。 ここまで明確なことが分からないとなると、自分が相当な馬鹿なのか、あるいはそれだけ徹底的に真相が隠されているのではないかと、疑いたくもなってくるというものだ。 (それに――) ここまで思考を巡らせたところで、ある可能性が脳裏を過る。 何故、自分の視野がこんなにも狭まっていたのか。 先入観の所為だと自分の中で結論は出たが、そもそもどうしてそんなものにがんじがらめにされてしまったのか。 先入観とは、初めに知ったことによって作り上げられた固定的な観念や見解であり、自由な思考を妨げる場合に使われる言葉だ。 すなわち、最初にディアナに知識を与えた人物の影響を大きく受けているのではないのか。 そして、その人物とはこの世にたった一人しかいない。 (――ウォーレス) もちろん、自分自身驕っていたという部分も大きいだろう。 多くの知識と情報を頭の中に叩き込まれ、知ったつもりになっていたところも、きっとあったはずだ。 それに、ウォーレスがディアナに教育を施したのは六年前からだ。 だから、厳密には最初にディアナに知識を与えた人物は、彼ではない。 しかし、自分は人間だった頃の記憶を失っている。 知識は残っていたものの、これまでの経験がなかったことになったも同然なのだから、固定観念が取っ払われた、まっさらな状態になっていたようなものなのだ。 そんなディアナに物事を考える基礎を教えたのは、やはりウォーレスで間違いない。 そして、ディアナに社会に潜むありとあらゆる闇を教えたのもまた、彼だ。 今まで目の当たりにしてきた思いも寄らぬ出来事の数々は、ウォーレスに教え込まれた闇の一部であるはずなのに、何故自分はこんなにも無知なのか。 (……ねえ、ウォーレス) 最初から、何でもかんでもウォーレスの言うことを信じていたわけではない。 でも、いつからだろう。 彼が言うのであれば間違いではないと、当然のように受け止めるようになったのは。 (貴方は……私に何をさせたいの……?) ずっと、ディアナを暗殺者として仕立て上げ、自身の有能な手駒として利用することが、ウォーレスの目的だと信じて疑わなかった。 きっと、この考えは間違いではないのだろう。 ディアナを己の利益のために使うのも、彼の目的なのだ。 だが、まだ裏があるように思えてならない。 自分なんかでは予測もつかないような、何か別の目的があるのではないかという予感が、焦燥感を掻き立ててくる。 (……ううん、今は考えるだけ無駄) どれだけ推理したところで、ここにウォーレスはいないのだ。 ならば、今は目の前にある書物の中身を確認するべきだ。 そっと頭を振り、本の表紙に視線を落とした。
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