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相変わらず奇妙な色をしている分厚い雲から、ぽつり、ぽつりと雫が零れ落ちてくる。
アリシアを追って走っているうちに、いつの間にか雨が降り出してきていた。
今はまだ小降りだが、そう間を置かずに勢いが増していくだろう。
(まさか、一度にあんなに催涙弾を投げつけられるなんて……)
素人の判断とは案外恐ろしいと、つくづく思った。
ディアナがアリシアの後を追った直後、一度に十発もの催涙弾を撃ってきたのだ。
咄嗟に結界で身を守ったため、事なきを得たが、いつまでもガスが充満しており、動くに動けなかったのだ。
そうこうしているうちに、アリシアの姿を見失ってしまったのだが、鋭い嗅覚を頼って彼女を追跡している真っ只中だ。
雨の匂いと混じりそうになるが、それでも獣人の嗅覚は非常に優れている。
アリシアの匂いを辿っていくうちに、彼女の気配が近づいてきた。
アリシアは今、随分と入り組んだ小道を走っている最中らしい。
(舐めないで……)
獣人であり暗殺者でもあったディアナの追跡を、この程度で振り切れるとは思わないで欲しい。
現在、建物の屋根の上を疾走しているディアナはある地点を通過すると、勢いをつけて屋根から飛び降りた。
軽やかに着地を決めた途端、前方から大きく息を呑む音が聞こえてきた。
ディアナはゆっくりと体勢を整え、眼前の少女に微笑みかける。
「――チェックメイト」
ディアナの台詞に目の前の少女――アリシアは怒りに顔を歪め、急いでこちらに背を向けて逃げ出そうとする。
だが、アリシアの進行方向には、行く手を遮るようにジゼルが立ち塞がっていた。
「……姫。貴女が催涙弾で足止めしてくれたおかげで、偶然ジゼルと合流できたんです。その時にジゼルに事情を説明したら、こうやって協力してくれたんです」
「……申し訳ありません、王女様」
ジゼルは口では謝っていたものの、退く気はないと示すために身構えた。
自分が追い詰められたことを悟ったアリシアは、こちらを振り返ると即座に叫んだ。
「――どうしてよ!!」
冷めた眼差しで見つめ返してくるディアナに怒りが煽られたのか、アリシアはさらに金切り声でまくし立てる。
「いいじゃない!! 貴女は今まで散々、いい思いをしてきたんでしょう!? 本当は私が手に入れるはずだったものを取り戻そうとすることの、どこがいけないの!? ううん、それだけじゃない!!」
「……は?」
「……え?」
アリシアの主張に、ディアナとジゼルの口からほぼ同時に疑問の声が上がった。
(今まで、散々いい思いをしてきた……?)
一体、何がどうなったらそう解釈できるのだろうか。
不幸自慢をするつもりはないが、他人からしてみれば、ディアナの境遇はなかなかに悲惨な部類に入るのではないか。
そんな疑問を抱いたのも束の間、アリシアの口から思いがけない言葉が飛び出した。
「あんたの所為で私、人を一人殺していたんだから……!!」
アリシアが明かした衝撃的な事実に、ジゼルが両手で自分の口を塞いだ。
ディアナも目を見開き、すぐには声が出てこなかった。
(……人を殺した? 私の所為で?)
一体どういう意味なのかとこちらから問う前に、アリシアは引きつった笑みを浮かべた。
「……ねえ、あんたはラティーシャ様から自分が本当のお姫様なんだって、聞いたんでしょう? だったら、私の正体も当然知っているんでしょ?」
ぎこちなく首肯すれば、彼女は乾いた笑みを漏らした。
「女の子だからって、そんな都合よくフォルスを持っているはず、ないよね? 私もね、フォルスを生まれつき持っていなかったの。絶対女の子はフォルスを持っている王族の中に、私みたいなのがいたら、周りに怪しまれるよね? あんたのお父様はね、周りから怪しまれないように、私を完璧な王女に仕立て上げることにしたの」
以前、ギディオンからその話を聞いたことがある。
フローラの血を脈々と受け継いでいる王族の娘は、必ずフォルスを宿して産まれてくるのだと。
理由は未だに不明みたいだが、フローラが尋常ではないほど強大なフォルスの持ち主だったため、おそらくその子孫にも多大なる影響を与えているのではないかと、語っていた。
そして同時に、完璧な王女に仕立て上げるという言葉に、嫌な予感がした。
(まさか――)
ついこの間、本で読んだばかりではないか。
フォルスを持たない女性でも、フォルスを封じ込めた血液を摂取すれば、高確率でフォルスを手に入れられると。
さらに、人を殺してしまったという言葉からも、悪い想像ばかりが膨らむ。
この二つを関連付けて導き出せる答えは、一つしかない。
「――まさか、死に至らしめるほど巫女の血を奪って飲んだんですか?」
ディアナの問いに、アリシアは一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに唇を笑みの形に歪めた。
「――ええ、そうよ?」
アリシアが肯定するや否や、ジゼルは頬を引きつらせた。
ジゼルほど露骨な反応はしなかったが、ディアナの表情も強張る。
「でもね、私、ウォーレスに教えてもらうまで知らなかったの。だって、そうよね? 血なんて汚(きたな)らしいもの、知っていたら口にしなかったもの」
そうなると、マリウスが秘密裏にアリシアに巫女の血を摂取させていたのだろうか。
「あんたのお父様はね、権力を使って巫女を一人、お城の地下牢に幽閉していたんですって。一人に絞ったのは、さすがに何人も神殿からこっそり連れてくるのは難しかったからみたいなの。そして、巫女を脅して血を抜いて、それにフォルスを封じ込ませていたみたい。そして、その血を上手く加工して、味では血だと分からないようにして、お薬だって言って、私に飲ませていたらしいの。五歳くらいからかしら? お薬を飲み始めたの。それくらいの頃になると、そろそろフォルスを扱う練習が始まるから、もう誤魔化せないと思ったんでしょうね」
彼女の説明に、微かに眉根を寄せる。
いくら答えを予測できていたとはいえ、内容の生々しさに息苦しさを覚える。
ジゼルなど、顔から血の気が引いていた。
「でもね、私はフォルスと相性がよくなかったみたいでね。そのお薬、何年も飲んでいたのよ? なかなかフォルスを身体に宿せなくて、やっとほんの少し取り込めた頃には、その巫女は血が足りなくなっちゃって、死んじゃっていたらしいの」
実の父親が犯した罪に、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
マリウスの手によって幽閉されていた巫女は、一体どれだけの血を抜かれてしまったのか。
何年もの間、アリシアにフォルスを宿らせるためだけに、利用され続けていたのか。
「私、ウォーレスに教えてもらうまでは、本当に知らなかったのよ? 私のために血を流して死んでしまった人がいたなんて。もし知っていたら、私は間違いなくお父様を止めていたもの。そこまでして、フォルスなんか欲しくないもの。フォルスさえなければ……獣人に嫁がなくて済むもの」
彼女はそこまで言うと、歪な笑みを浮かべた。
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