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「――だから、私のことを憎んだままで構いません。でも、私を殺すのは諦めてください。お互いに今までの立場のままで、これからも生きましょう」
ディアナが出した結論に、アリシアが目を丸くする。
陸に打ち上げられた魚みたいにぱくぱくと口を動かしてから、ようやく掠れ気味の声が出てきた。
「は……? な、何を言って……」
「先程も申し上げたでしょう? 私を憎いと思う気持ちは、そう簡単に捨てられるものではないでしょうって。でも、私は生きていたい。だから、ここがお互いの妥協点だと思ったんです」
ディアナは生きる代わりに、生涯アリシアに憎まれ続ける。
アリシアはディアナを憎む代わりに、その命を奪うことは断念する。
「姫、ご存知でしょうけど、人殺しは大罪ですよ。私はウォーレスが手を回している所為で罪に問われませんでしたけど、貴女にも同じ対応をしてくれるとは限りません」
これはディアナの勘に過ぎないが、何となくウォーレスはアリシアが罪に問われたとしたら、見捨てそうな気がする。
王女としての地位を失い、ただの人間の娘になったアリシアに、彼が何らかの価値を見出すとは考えにくいからだ。
だから、ディアナ本人が殺されたくないからという理由もあるが、アリシアの罪をこれ以上重くしないためにも、説得を試みる。
「……それに、貴女が王女としての生活に戻れることは、もうありません。王族の義務を怠った罰として、貴女は王族が所有する静養地に身を寄せて、そこで一生ひっそりと過ごすことになるでしょう。だから、貴女がこの先、サクリフィスになることも、女王になることもありません」
これは、前に王立騎士団長であるレイフが下した決断だから、おそらくアリシアの身柄を保護した暁には、実行に移す心積もりはもうできているはずだ。
その上、ヴァルが公の場でディアナを正式にノヴェロ国の王妃として迎え入れると、宣言してしまった。
今さら、アリシアがサクリフィスになることも、バスカヴィル国の女王の座に就くことも無理なのだ。
「だから姫、このまま私のことを見逃してさえくれれば、これからはただの少女として生きられるんです。貴女が望んだ、貴族の令嬢としての華々しい生活を送るのは難しいかもしれませんが、それでも限りなく近い生活を手に入れられるんです。――お願いします、どうか私を見逃してください。そして、この手を取ってください」
もし、アリシアが事実上の軟禁生活を強いられたとしても、元は王族なのだ。
だから、おそらく平民よりは恵まれた環境で過ごせるはずなのだ。
ディアナの懇願に、アリシアの視線が戸惑うように揺れる。
今、アリシアの心は揺れ動いているのだ。
彼女は自ら失踪したことにより、知らず知らずのうちに、自分が望んだ人生を手に入れられる状況を作り上げていたのだと、理解したのだろう。
アリシアの瞳には先程までの濁った色は消え、徐々に希望の光が宿りつつある。
「姫、戻りましょう? 姫が言っていた通り、やり直しましょう?」
「……あんたを殺したら、本当にあんたが教えてくれた未来はなくなっちゃうの?」
「……おそらく。今の私は、正式なノヴェロ王妃で、サクリフィスでもあります。もし、この場で私を殺そうものなら、私の夫が間違いなく貴女に極刑を求めるでしょう」
「……極刑……」
まだ躊躇う素振りを見せるアリシアの肩を、ゆっくりと隣に並んだジゼルが優しく叩く。
「……王女様、私からもお願いします。貴女はディアナのことが憎くてたまらないかもしれませんけど、私にとってはディアナは大切な友達なんです。もし、貴女の心に王女としての慈悲が残っているなら、どうか私から友達を奪わないでください」
「……そういう、ことだったのね」
「え?」
アリシアは驚いた声を上げたジゼルを見遣ってから、こちらに目を向けてきた。
「憎しみのままに人を殺して、自分の願いを押し通すということは……殺された人の大切な人たちからも、自分のと同じくらいの憎しみを向けられるということだったのね」
「……ええ、そうですよ」
だから、ディアナはその業を一生背負い続けていかなければならないのだ。
ディアナが肯定すると、アリシアはどこか疲れたような笑みを浮かべた。
「憎まれていた側のあんたにしてみれば、勝手な言い分なんだろうけど……私、だんだん自分が何をしたいのか分からなくなってきちゃった」
「……きっと、誰かを憎み続けていると、誰でもそうなってしまうんじゃないでしょうか」
「そうかもね……。あんたのこと、全部許したわけじゃないけど……」
アリシアは一瞬難しそうな表情を浮かべると、こちらにおずおずと手を伸ばしてきた。
「私、もうあんたを殺そうとするのは、やめ――」
あと少しで、アリシアの指先が差し出されたディアナの手に触れようとした刹那。
アリシアの言葉を遮り、銃声が辺りに響いた。
「……え……?」
ディアナのすぐ脇を凄まじい速度で何かが通り過ぎていったかと思えば、アリシアの眉間に穴が空いていた。
アリシアの目は限界まで大きく見開かれ、彼女の周囲には鮮血が舞う。
糸の切れた操り人形みたいにアリシアが仰向けに倒れていく様が、やけにゆっくりと見えた。
アリシアが倒れた直後、ジゼルが悲痛な悲鳴を上げた。
「――王女様!!」
地に膝をついたジゼルがアリシアの身体を揺さぶるが、即死だということは一目瞭然だ。
アリシアの頭部からどくどくと血が溢れ出し、周囲に血の海が広がっていく。
ディアナは、すぐには動けなかった。
背後から感じられる気配に、こんなのは何かの間違いだと叫びたかった。
だが、鼻孔を掠めていく硝煙の臭いに吸い寄せられるように、緩慢とした動作で後ろを振り返る。
その瞬間、分厚い雲に稲光が走り、雷鳴が轟いた。
その姿を目の当たりにした途端、自分の中にひびが入っていくような感覚がした。
「……ヴァ……ル……?」
ディアナの背後で黒光りする拳銃を構えていたのは、紛れもなくヴァルだった。
雷光に照らされて浮かび上がった彼の顔からは、何の感情も読み取れなかった。
その銃口からは硝煙が立ち上り、今しがた発砲したばかりなのだと、嫌でも思い知らされる。
いつの間に、そこにいたのだろう。
アリシアに気を取られていた所為か、ここまで接近されていたにも関わらず、全く気がつかなかった。
雷が鳴り始めると瞬く間に雨脚が強まり、水のつぶてが勢いよく地面を叩きつけていく。
「どうし、て……」
雨に掻き消されてしまいそうな声で、目の前のヴァルに問う。
何故、彼がアリシアを撃ち殺したのか。
どうして、ヴァルが拳銃なんか所持しているのか。
頭の中が衝撃と疑問で掻き乱され、思考がまとまらない。
彼はアリシアの遺体に一瞥をくれると、身を翻して建物の上へと飛び上がった。
「待って……!!」
ディアナの制止をも振り切り、ヴァルは姿を消してしまった。
その直後、突然周囲が怒号と大きな物音で騒がしくなった。
「何!? もう何なの!?」
錯乱状態に陥ったジゼルが答えを求めて叫ぶが、ディアナたちの周りには異変は見受けられない。
視線を走らせて耳を澄ませば、ディアナたちがいる小道の向こう側で何かが起きているのだと、察する。
(暴動? 内乱?)
どちらかは判別がつかないが、とりあえずジゼルに駆け寄り、一度アリシアから引き剥がす。
「立って、ジゼル! とにかく、何が起きてもすぐに対処できるようにしておかないと……!!」
「う、うん!」
アリシアには申し訳ないが、死者よりも生きている人の命を優先させなければならない。
ジゼルの肩を抱き寄せ、慎重に周囲の様子を窺う。
その時、一際大きな叫び声が上がった。
「この国を腐敗させた、忌まわしい女王が投降した!! 悪が巣食っていたこの国は、もう我々獣人のものだ!!」
その宣言に応じるように、あちこちから雄叫びみたいな歓声が湧き上がった。
聞こえてきた内容に、二人揃って息を呑む。
(……違う、これは獣人たちの――)
――革命だ。
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