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サイラスが母の遺体を片づけた後も、フェイは血溜まりの残った部屋に立ち尽くしていた。
(何だよ、あれ……)
どうして、最期の最期に母は満ち足りた微笑みを浮かべ、この世を去ったのか。
何故、ずっと憎くてたまらなかった母が死んだというのに、この心は晴れないのか。
窓を叩く雨音が耳障りで、舌打ちをする。
本当は、心に立ち込める靄の正体には、とっくに見当がついていた。
ただ自分自身が認めたくなかっただけで、答えはとうの昔に出ているのだ。
「……馬鹿なところは、母親から引き継いじゃったのかなあ」
自然と浮かんだ苦笑いと共に呟いたものの、フェイの声は虚しく宙に溶けていくだけだった。
血の海から視線を引き剥がし、ぼんやりと何もない天井を見上げる。
(俺って、あの女の復讐ばかり考えていた所為で、それ以外は何も持っていなくて、空っぽだったんだな……)
母が剣で刺し貫かれた姿を目の当たりにした瞬間は、血が沸き立ったのではないかと錯覚するほどの歓喜が胸を満たした。
ずっと、自分を道具扱いしてきた女が、こちらの思惑通りに罠に嵌り、今まさに絶命しようとしていたのだ。
これで、ようやく報われたと思っていた。
母という存在から解放されると、信じて疑わなかった。
でも、達成感が湧き上がってきたのはほんの一瞬の出来事で、すぐに虚無感に襲われた。
全身から力が抜け落ち、まるで抜け殻にでもなった気分に陥ったのだ。
だって、自分には母への復讐以外の目的など、持ち合わせていなかったのだから。
復讐の炎が消え去ったフェイの心には、何も残っていなかったのだから。
正直、この後に控えている真の舞台には興味がない。
ウォーレスにとっては悲願だったのだろうが、自分からしてみればただの余興に過ぎない。
(……姫も、さすがに泣くかな)
母の話を聞いた時点で、ディアナはひどく衝撃を受けていた様子だったのに、さらにウォーレスの口から語られる真実を耳にしたら、一体どうなってしまうのか。
できれば、彼の口から話を聞かせてもらおうなどと考えて欲しくないものだが、彼女の性格を考えると、手っ取り早く核心に迫るための人選をしかねない。
せめて、ヴァル辺りに訊いてくれればいいのだが、果たして今の状況でディアナは彼の元を訪れるだろうか。
密かに、ディアナ自身が推理して真実に辿り着くことを期待しているのだが、彼女が持つ情報はあまりにも限られているため、自力で真実を掴み取るのは難しいだろう。
そんなことを考えていたら、ふと背後から微かな物音が聞こえてきた。
緩慢とした動作で振り返れば、そこにはナディムが立っていた。
「……おい、お前も働けよ」
開口一番文句を突きつけられ、思わず苦い笑みを零す。
「……ひっどいなあ。俺、結構働いていたと思うけど?」
「母親が殺された現場で、いつまでもぼーっと突っ立っていた野郎にそう言われても、説得力ねぇな」
「まあ……確かにね」
否定しないで軽く肩を竦めると、彼は溜息を吐いた。
「気持ちは分からなくもねぇが、もっとしゃんとしろ。現状報告してやるから、これ聞いたらさっさと働きやがれ」
「はいはい……それで、今はどうなっている?」
「城の攻略は完了した。もう、こっちが占拠していると考えてくれていい。王立騎士団と神殿の動きも封じた。他の人間共に関しちゃ、目立った抵抗をした奴は粛清しているが、大人しく投降した奴らには自宅に引きこもってもらっている」
「つまり、制圧完了ってことか……」
目を伏せて僅かに思案した後、ナディムに疑問を投げかける。
「……姫は今、どうしている?」
「姫って、王妃様のことだろ? こっちで回収して、今は城にいる。もっと抵抗するかと思ったが、案外大人しく捕まってくれたな」
「……多分、ジゼルがいたからでしょ」
自分が下手に抵抗することで、ジゼルに危害が及ぶことを恐れたのだろう。
実にディアナらしい判断だと思う。
彼に向き直り、ゆっくりと扉へと向かう。
「……分かった。じゃあ、俺も城に戻るよ。そっちの方が人手不足だろうし」
「ああ、俺は街の方に戻るから、しっかりやれよ」
「はいはい……」
ナディムに軽く手を振り、廊下に出る。
彼もすぐにあの部屋から出てくるかと思っていたのだが、後ろから足音は聞こえてこなかった。
(さて、と……)
何をするにしても、現状はとりあえずウォーレスに協力するしかない。
そういう契約で協定を結んでいたのだから、こればかりは仕方がない。
だが、その後はどうしたものかと頭を悩ませる。
これといってやりたいことがなくなってしまったのだから、今後の展開を傍観するのが妥当なのだろう。
しかし、もし全てを知ったディアナが涙に暮れていたら、どうするか。
もし、彼女の心が壊れそうになっていたら、どうするか。
ディアナがそんな柔な女ではないことは重々承知しているが、こうも予想外の出来事が連続しているのだから、絶対に大丈夫だとは言い切れないだろう。
(その時は――)
屋敷の外に出た途端、強い雨が全身に吹きつけてきた。
先刻まではそれほどではなかったのに、いつの間にか風の勢いも増していたらしい。
嵐と呼んでも差し支えのない空模様は、さながら天が泣き叫んでいるかのようだった。
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