Chapter7. 『VENGER―ヴァンジェ―』

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数日後の晩。 ついに、ディアナが商品として売り出される闇オークションの会場に足を運んだのだが、仕事が長引いた影響で、会場に足を踏み入れた際にはもうオークションが始まっていた。 入り口で受け取った仮面を顔に張りつけ、煌々と照らし出されている舞台上に目を向ける。 舞台の中央には、頑丈な鉄の檻が鎮座しており、その中には質素な格好をさせられている、銀髪の少女が不安そうに視線を彷徨わせていた。 粗末な服を着せられているというのに、彼女の美貌はかえって際立っていた。 まだ幼いというのに、これほどまでに鮮やかな美しさを放つ者を、未だかつて見たことがない。 その戸惑う様子さえも、どこか神秘的に映った。 顧客たちは、類稀なる幼い美少女を前にして、一層盛り上がりを見せた。 次々と驚くほど高い金額を提示していっては、会場内は脂ぎった笑い声で満たされていく。 そんな彼らを興醒めした眼差しで眺めているうちに、やがてディアナを購入する権利を手に入れた、豚みたいに肥えた中年の男が舞台に向かっていく。 彼女はこの男に買われ、奴隷として一生鎖に繋がれた生活を送るのだろう。 その男の背を見ていると、不意にディアナの未来があっさりと脳裏に描き出されていく。 あまりにもありふれた悲劇的な未来に、思わず失笑が弾けてしまった。 何となくここまでやって来てはみたが、所詮この程度の結果で終わるのかと思ったら、己の行動が急に馬鹿馬鹿しく感じられてきた。 彼女がこの場からいなくなるまで見届けなくてもいいだろうと、舞台から目を逸らそうとした矢先、信じられない光景が視界に飛び込んできた。 後ずさって男の手から逃れようとしていたディアナが、ついに腕を掴まれて檻の外へと引きずり出された刹那、彼女が纏う雰囲気が一変したのだ。 それまでは混乱し、怯えていた様子だったのに、その目には敵と対峙した肉食獣のような鋭い光が宿っていた。 それだけではなく、ディアナの口からは唸り声らしきものが漏れていた。 「お、おい……?」 さすがに何かおかしいと思ったのか、男はディアナから手を放す。 すると、その直後、彼女は目にも留まらぬ速さで男に飛びかかった。 目を爛々と輝かせ、歯を剥き出しにした形相は、最早獣としか言いようがなかった。 ディアナが男の喉笛に歯を突き立てたかと思えば、一瞬で食いちぎってしまった。 瞬間、宙に赤い飛沫が舞う。 男は目を驚愕と恐怖に見開いたまま、舞台の上に仰向けに転がった。 彼が倒れた拍子に、また一段と激しく血が周囲に飛び散る。 男から素早く飛び退いた直後、彼女は不快そうに何かを口から吐き出した。 舞台の上に無造作に吐き捨てられたのは、血液と唾液が纏わりついた、殺されたばかりの男の肉片だった。 ディアナは口の周りにべっとりと付着した血を拭うこともせず、荒々しい息を吐き出しながら隙を見せずに男の遺体を窺っていた。 まるで、獲物を仕留め損ねていないか確認している、獣みたいだ。 彼女の長い白銀の髪も、衣服も、素肌も、返り血で汚れている。 誰もが目を背けたくなるであろう光景の中、ディアナは実に堂々と舞台の上に立っていた。 他に自分に仇なす存在がいないと判断したらしい彼女の顔からは、ごっそりと表情が抜け落ちた。 塵(ごみ)でも見るかのようなひどく冷酷な目つきで、男の死体を眺めている。 その姿を目の当たりにした途端、ぞくりと背筋を何かが駆け抜けていく。 こんな場面を目撃したのだから、普通に考えれば、その何かの正体は恐怖であるのが正しいのだろう。 しかし、ウォーレスの心を支配していたのは、恐怖などではなかった。 胸の奥底から湧き上がってきたのは、歓喜と感動だった。 (そうだ、この娘こそが――) 全身の血が沸騰したかのような興奮を覚えたのは、生まれて初めてかもしれない。 自分が宰相に抜擢された時でさえ、ここまで激しい感情は芽生えなかったのではないか。 ――追い求めていた、理想の王だ。 何故、これまで自分が王に成り上がろうなどと考えていたのか。 こんなものを見せつけられては、自分が王になりたいと願うことすら、おこがましく思えてくる。 己に害を為そうとする者を容赦なく断罪してみせた、非情さ。 その非情な判断を実行に移せるだけの、完膚なきまで相手を叩きのめす、強さ。 血に塗れても尚、己の正しさを信じて誇り高く立ち続ける、その姿。 さながら百獣の王を思わせる存在感に、心が屈服せずにはいられない。 まさか、こんなにも従わずにはいられないと思える人に会えるとは、考えてもいなかった。 自分が王になるしかないとずっと考えていたが、これほどまでに王に相応しい人物がいたのかと思うと、感嘆の吐息が漏れてくる。 この場で膝を折って頭を垂れたい衝動をどうにかやり過ごし、食い入るように舞台上のディアナを見つめる。 彼女は我に返ったのか、きょとんと不思議そうに目を瞬いた。 そのあまりにも大きな態度の落差にも、衝撃と共に歓喜が生まれる。 あんなにもいたいけな少女が、あれほどの惨い仕打ちをやってのけたのだ。 彼女がこの先成長したら、どれほどの大物になるのか。 いや、大物なんて表現では生温い。 ディアナはきっと、化け物なのだ。 唯一無二たる女王として君臨するためにこの世に産み落とされた、化け物。 その甘美な響きに、ごくりと生唾を飲み下す。 でも、周囲の反応は自分とは真逆のものだった。 誰もが恐れ、おののき、中には泣き出す者までいた。 それどころか、今すぐにでもこの場から逃げ出そうとする者もいたのだ。 彼女もまた、己の所業を受け入れられなかったのか、悲鳴を上げて膝から崩れ落ちてしまった。 だが、彼らの反応は無理からぬものだ。 人間は理解できないものに対し、過剰な恐怖心を抱く。 だから、ディアナを否定せずにはいられない愚か者の気持ちも、分からなくはない。 とはいえ、彼女の死を望む声だけは許すわけにはいかない。 ディアナほどの存在は、後にも先にも現れないだろう。 この心をここまで震わせ、大いなる感動を与えてくれる、絶対的な王者は彼女しかいないはずなのだ。 ならば、ディアナの素晴らしさを理解できない無知な豚共から、この手で彼女を救い出さなければならない。 その想いに突き動かされたかのごとく、ディアナに向かって惜しみない拍手を送る。 すると、会場内を満たしていた悲鳴や怒号が消え、辺りがしんと静まり返る。 ウォーレスの拍手だけが響くようになってから、顔に張りつけていた仮面をかなぐり捨てた。 未来の女王陛下と対面するのに、仮面で素顔を隠すなど無礼にも程がある。 逸る気持ちを抑え、ゆったりとした歩調で舞台への道のりを進んでいくと、彼女は信じられないものでも見たかのように、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いた。 ディアナ自身も、己の真価をまだ理解できていないのだろう。 だから、手を差し伸べたウォーレスに驚愕を隠せなかったに違いない。 ならば、これからじっくりと時間をかけて教え込んでいけばいいだけの話だ。 やがて、血塗れの小さな手がウォーレスの手に重ねられた。 こうして、この日を境に二人の道は交わったのだ。
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