Chapter7. 『VENGER―ヴァンジェ―』

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無事、ディアナを自分の手元に引き取れたのはよかったものの、いくつか誤算があった。 一つ目は、兄が彼女を神殿で保護したいと申し出てきたことだ。 しかし、これは瑣末な問題だったため、すぐに申し出を退けられた。 二つ目は、ディアナをウェイスバーグ家の養女にすることを、親族が承諾してくれなかったことだ。 彼女は本来、王女なのだが、本当の身分は明かせるわけがない。 たとえ貴族でなくとも、ウォーレスが手ずから教育は施せる。 でも、貴族の身分を持っていると、受けられる恩恵が増えるのだ。 社交の場など、その最たるものだろう。 社交界に出席するには、それなりの身分が求められる。 貴人の身の回りの世話をする付き人も同行が許されているが、やはり付き人程度では貴族同士の会話に入り込むことはできない。 社交の場は貴族の世界を肌で感じられる、いい勉強の機会になると思ったから、どうしても社交界に出られるだけの身分を与えたかったのだ。 だが、親族は最後まで首を縦に振ってくれなかった。 誤算といったが、この二つはまだ許容の範囲内だった。 問題は、三つ目以降の誤算だ。 三つ目は、ディアナが記憶喪失に陥っていたことだった。 彼女と会話を始めてすぐに分かったのだが、どうやら獣人へと変貌した影響で、人間だった頃の記憶が欠落してしまったらしい。 後にディアナの主治医となったトバイアにも診させたのだが、明確な原因は不明であるものの、毒の影響で脳に異常が発生したと考えられると、告げられた。 それ以降に、記憶に関する問題は起きなかったが、彼女の人間だった頃の記憶は一切戻らなかった。 もし、その頃の記憶があったならば、ディアナに野心を植え付けるのも、焚きつけるのも、容易かったのに、残念でならなかった。 ウォーレスの口から真実を語り聞かせるという手もあるにはあったのだが、この頃の彼女はこちらをひどく警戒していたため、教えたところで信じなかっただろう。 だから、ディアナの過去については沈黙を保っていたのだ。 四つ目は、ディアナの中に野心を芽生えさせるために教育を施したのに、彼女が微塵も国政の現状に不満を抱かなかったことだ。 ウォーレスが見込んだ通り、ディアナは非常に聡明な少女で、知識の呑み込みも応用も瞬く間にできるようになった。 しかし、彼女には上昇志向が足りなかった。 上を目指して成り上がってやろうという意気込みが、一向に見られなかったのだ。 五つ目は、ディアナが非情に徹することに向いていなかったことだ。 彼女の本質を理解した瞬間、落胆さえ覚えた。 あの舞台上で見せた、王者そのものの振る舞いは幻だったのではないかと疑うほどに、ディアナは感受性が豊かで善人に近かった。 訓練を重ねれば重ねるほど、彼女の戦闘力も暗殺の技術も磨かれていくのに、冷酷さはすっかり鳴りを潜めてしまっていたのだ。 六つ目は、次第にディアナが心を閉ざしていくようになったことだ。 これは、自分にとって最大の誤算だったといっても差し支えはない。 どうしたら彼女が女王への道を目指すようになるのかと考えた結果、かつての自分みたいに現状に憤りや憎しみを覚えさせなければならないと判断した。 そういった激情は、見返してやろうと、幸せを掴み取ってやろうという大きな原動力に繋がる。 その原動力は、向上心とも、復讐心とも呼べるものなのかもしれない。 だから、きっとディアナにとってもそうに違いないと思い、あえて彼女に辛く当たった。 ディアナを、絶望のどん底まで突き落としたつもりだった。 でも、彼女は憤りに身を震わせようとも、憎しみが胸の奥底から込み上げてこようとも、それらの感情は一時的なもので、長くは持続しなかったのだ。 激情に振り回されることに疲れ、諦め、心を閉ざし、何も感じないようになっていったのだ。 いつしかディアナは、こちらに命じられるがまま淡々と任務をこなすだけの、人形と化していった。 どうして、こちらの思惑通りに事が運ばないのか。 こんなはずではなかったのに、一体どこで間違えたというのか。 そんな風に思い悩んでいた頃、ちょうどラティーシャに纏わる情報が部下から報告された。 どうやら、ラティーシャが臣下を使い、故意に害獣にディアナを襲わせたらしい。 そして、王族全体にも復讐心を向けているみたいだとも、聞かされた。 真っ当な宰相ならば、このような情報を聞かされたら、即刻ラティーシャを国家を脅かす不穏分子と見なし、早いうちに悪の芽を摘み取ろうと画策するところなのだろう。 だが、自分は違った。 むしろ、これは使えると判断し、利用してやろうと決めたのだ。 ラティーシャ自らが今の王家に復讐を誓っているのなら、彼女に王族を殺害してもらえれば、こちらの手間が省ける。 ラティーシャはディアナの命も狙っているみたいだが、そちらはどうとでもなる。 ディアナは自衛くらい簡単にできるし、何より今まで彼女が身の危険に晒されたことは、性的な意味での危険を除けば、皆無だった。 もしかしたら、ラティーシャに理不尽に命を狙われることで、ディアナの考えも変わるかもしれない。 そう考えたウォーレスは、即座にラティーシャとの接触を図った。 本人は自分が権謀術数に長けていると自負しているらしいが、こちらからしてみれば彼女の考えは穴だらけで、その隙の多さは笑いを噛み殺さなければならないほどだった。 ラティーシャと表向きは手を組んだ後、今度は彼女の息子に目をつけた。 本人は母に従順に振る舞っているつもりみたいだが、その目を見れば憎悪がありありと浮かんでいるのが、すぐに分かった。 むしろ、息子の様子に気がつかないラティーシャが愚鈍なのだろう。 彼女の息子であるフェイとも接触を果たし、本音を引き出してみたところ、やはり彼は母親に並々ならぬ憎しみを抱いているみたいだった。 そして、時が満ちた暁には、母親を手にかけるつもりらしい。 しかし、その憎しみの本質を突き詰めれば、ただ母親に本当の意味で愛されなかったことを恨みがましく思っているだけという、実に幼い欲求不満だったのだ。 フェイに対しても失笑してしまいそうになったが、彼は母親とは違い、一応己の未熟さは理解しているようだった。 ただ分かっていても、認めるのはなかなか難しいみたいだったが、フェイの聡明さは嫌いではなかった。 そういうところは、彼の従妹に当たるディアナとよく似ていた。 だから、そんなフェイをだんだんと好ましく思い、最終的には真の意味での共犯者には彼を選んだ。 フェイはウォーレスの野望に一応の理解は示してくれたが、興味はそそられなかったようだ。 それでも、自分に協力してくれるのであれば、ウォーレスへの協力も惜しまないと約束してくれた。 もし、フェイが次期ノヴェロ国王になるのであれば、新たな女王に祭り上げる彼女の夫として宛がうのに、ちょうどいいとも思った。 歳は少々離れているが、六歳差ならば政略結婚においては許容の範囲内だ。 時と場合によっては、親子ほども歳の離れた相手との婚姻を結ばなければならないこともあるのだから、かなり条件としてはいい方だろう。 従兄妹ということで、血縁者でもあるわけだが、兄妹ほど血の繋がりは濃くないのだから、それほど問題にはならないだろう。 それに、従兄妹同士の婚姻が厭われるのは、血の繋がりがあるということよりも、両家の利益があまりないことによるものが大きい。 その点、彼とディアナならば互いに利益しかもたらさない。 こうしてフェイと手を組んでから、今後の彼女への扱いも決定した。 ラティーシャの復讐心を目の当たりにし、やはり復讐心というものは大きな原動力になると確信したのだ。 だから、ディアナにはこれまでと変わらず暗殺者として闇の世界に身をやつしてもらうことにした。 今でこそ、心を押し殺して無感情に生きようとしているが、いつか必ず限界が訪れるはずだ。 心の限界を迎えたその時こそ、彼女はいつかのように自分を追い詰める存在に牙を剥くのだろう。 その相手の中に、ウォーレスが含まれていようとも構わない。 むしろ、ディアナがさらなる高みを目指すための礎になれるのなら、本望だ。 ディアナがこの国の女王として成長するためならば、差し出せるものは何だって彼女に捧げる所存だ。 決意を新たに日々を過ごしているうちに、やがてノヴェロ国王の代替わりが行われる時期を迎えた。
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