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コーエンは穏花に美しいお辞儀をすると、帽子を被り、静かに去って行った。
遠ざかる足音を聞きながら、穏花はそっと、前を見た。
やはり、間違いなく、前方にある、盛り上がった雪の小山。
穏花は震える足を、一歩、また一歩と、前に出した。
少しずつ、近づいて来る、古びた銀の十字架。
この下に……美汪がいるとでもいうのか?
穏花は雪山の前で立ち止まった。
両手を広げたくらいの大きさの、白いそれを、じっと見つめていた。
現実味など、微塵もなかった。
これはきっと、あの冷静沈着で聡明な彼が考えた計画で、明日にはきっと「バカだね、冗談だよ」と言って何食わぬ顔で現れるのだと。
——ふと、穏花は見下ろした小山に、雪の白さ以外の何かがあることに気づいた。
穏花は斜面を少し上り、そこに両膝をつくと、手袋を外し、無造作に置いた。
降り積もった雪の隙間から、うっすらと覗く紅い何か。
穏花がそれを確かめようと、かじかむ指先を伸ばした時だった。
——突如、吹き抜ける強い風。
煽られた小山の雪が、その下に埋もれていたそれと一緒に舞い上がった。
真紅の薔薇
溢れ返る優雅な光景
弾けて香る
甘く儚げで、美しの痛みを伴う
懐かしい匂い
『それは、たぶん僕自身の香りだろうね』
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