第一章

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十三年前に遡る。 その頃、タクシー会社に勤めていた桜は、いつものように常連客を彼女の仕事場から家へと送っていた。 因縁のある客だった。 客が指定した、いつもの道、いつもの時間だった。 朝日が街を満たしていた。 「このお宅、何かあったのかな?」 客が初めてその家のことを話題にした。 「お知り合いですか?」 滅多にしない質問が桜の口を衝いた。 「いえ、全然」 客は慌てて(かぶり)を振った。 「何か気になりますか?」 桜はもう少し探ってみたくなった。 「いつもピカピカだった車が、最近は汚れたまんまだから」 客はもう見えなくなった車庫の方を振り返ろうとした。 「ああ…」 桜は納得した。 「お庭も荒れた気がする」 客は明らかに答えを求めていた。 「ご不幸があったようです」 桜はしんみりとした。 「先生が?!」 客は咄嗟に口を手で押さえた。 桜は聴かなかったことにした。 「亡くなったのは、奥様らしいです」 桜の脳裏に奥様の面影が浮かんだ。 「ああ…」 客は唇を噛んだ。 「ピカピカだった車も庭も家も荒れ放題です」 「知り合いなんですか?」 客は桜のシートに手を掛けた。 「ご主人とは、洗車仲間だったんです」 香水の匂いがした。 「それで…」 客は小さく頷いた。 「息子さんは、お母さん子だったので、ショックで完全に引き籠ってしまったそうです」 桜は余計なお喋りをした。 「あの、遠野さんて、タクシーの洗車は自分でするんですか?」 客は何か思い付いたようだった。 「もちろん。それも仕事の一部です。私の場合は、プライベートでも洗車が趣味みたいなものです」 「教えてもらえますか?」 「え?」 「洗車を」 「ひょっとして、さっきの車を洗うとか?」 「はい、どうしても洗って上げたくて…」 「それはそれは…」 遠野はこの客が憎めない。 「今日で北千住のお仕事を辞めます」 「また急なお話ですね?」 桜は、ちょうど信号待ちで、客の方を見た。 「実は、急でもないんです。母が亡くなるまで通っていた中学に大好きな先生がいて、その先生が最後に会った時に教えてくれたの。死にたくなるほど辛い時は、とりあえず誰かのために生きたらいい。私が今生きているのは、その言葉のお蔭なの」 「そんなことが…」 「叔母さんの家にいられなくなって、高校を中退して、叔母さんの家に残して来た弟を大学に行かせるために、手っ取り早く夜の街で稼ごうとしたら、危ない連中に連れて行かれそうになって、タクシーに駆け込んだら桜さんの車で、桜さんの紹介で魔法使いのパンさんに会って、何だか気に入られて、しばらく置いてもらって」 「魔法使いのパンさん…」 桜は苦笑した。 「あの薔薇の園で、あっという間に、十六歳の家出少女が十八歳の佐藤美沙(みさ)に早変わりして、運転免許までもらって、堂々と北千住で働き始めて、弟も大学に進んで、これは弟の頑張りなんだけど、この間、弟から、姉ちゃんの仕送りが無くても何とかなりそうだから、姉ちゃんはもう自分のために生きろって連絡が来て、そしたら、急に何を目標にして生きて行けばいいのか分からなくなった」 「弟、凄い!」 「パンさんがこの世の人なのかも分からないけど、確かなのは、もう今のお仕事はしなくていいということ」 「パンさんはこの世の人だよ」 そっと呟いた。 「今、あの汚れた車を見て、閃いた。お仕事辞めて、あの車を洗車してあげたい」 「何かちょっとした飛躍があるような気もするけど、ま、いいか…」 桜は下唇を突き出した。 「二十二歳の佐藤美沙から、二十歳の家出少女に戻れるのかな?」 「それは大丈夫じゃない?」 「パンさんには、借りていた佐藤美沙さんをお返ししようと思う」 「パンさんも喜ぶと思います」 「二十歳の家出少女は、とりあえず何をしようかな?」 「それならば、いっそ洗車を商売にすればいいんじゃない?」 「商売?」 客は驚いた。 「千住よりずっと実入りは悪いかもしれないけど、やり方によっては需要があるかもしれない」 「洗車…やっぱり水商売か…ふふっ」 「違い無い。応援するよ」 「ありがとう。でも、そうなると、遠野さん達に送り迎えしてもらうのも、今日で最後だね?」 「寂しいけど、そういうことなら、やむを得ないね」 「塚さんや横さんにもよろしく」 「了解」 桜はヘッドライトをハイビームにした。 遠くで猫の目が光った。
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