メルカトルの足跡

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 私の家には額縁に入った足跡が飾られている。綺麗に揃えられた大きな足跡。  家族旅行で港街に行った時、泊まった宿に足跡があった。白い塗り壁にテープで貼り付けられた黒い足跡。  外国にいる親戚に会いにいった時、隣家の表札の下に足跡があった。和紙のような厚紙にぺたりと押された滲む足跡。 他にも、遠い街や村に行った時に見る。 私が住んでいる街には私の家にしか無いようだ。  この足跡には共通点がある。 mercatol(メルカトル)、と、書かれているとこだ。 恐らく、いや絶対。同じ靴だろう。字が逆さになっていないということは、きっと靴底に鏡文字で彫られているんだ。 あちこちにあるのはどうして? この家にはあるのに、どうしてこの街のどこにもないの? mercatolってなに? 「知るかよ、」 「きっとくだんねぇことさ。そこらを放浪してる暇な大人が暇つぶしでやったんだ。」 「……兄さんって夢がないのね。」 こちらを振り返りもせずぶっきらぼうに言う兄。 「そんなことより宿題は。神父様から聞いたわよ。講義をすっぽかして居眠りしてこまってるって、申し訳ないとは思わないの。」 「…ごめんなさぁい。」 私の話なんて聞かない、ずっと怒ってる母。 「そんなくだらんこと聞いてる暇があるんなら勉強してこい。勉強さえすれば他はどうとでもなるんだから。」 「でも………、わかった。」 勉強しろが口癖の父。 つまんない家族。神父様の話が面白みの欠片も無いのが悪いんじゃないか、聖書はあんなにも夢があるのに。  「あれはな、メルカトルの足跡だよ。」 「俺が丁度お前くらいの時、泊めてくれと藍鼠色のマント男が戸を叩いた。」 「異国の品を売っていてな、南の夏津鳥(なつどり)の扇や、砂漠に埋まる蠍座の甲羅、大理石のルーペに瑪瑙のブローチ。」 「よぉっく覚えてる。」 「俺は初めて見るもんにそりゃあもう驚いた。世界は思ったよりも広いんだと気付かされたよ。」 「その男は一ヶ月程泊まってな。昼にフラッと出てって深夜にいつの間にか帰ってくる。猫のような気まぐれた男だ。」 「最後に、靴裏を印具(インク)に浸してあの足跡を押していた。外から見える場所に貼ってくれと頼まれてよ、丁度戸窓から見えるあの壁に貼ったんだ。」  爺ちゃんは顎髭を撫でながら懐かしそうに笑った。 異国の物を売って旅をする藍鼠マント。 私の頭はそのメルカトルという不思議な男の事で埋まっていた。  「どうしてあの足跡を置いてったのかは知らない、だが面白い奴だったぞ。」 「お盆程のカルトンを持っていてな。彼奴が眠っている隙になかを覗いたんだ。」 「そうしたら、色んな街の地図が入っていたよ。この街の地図も書きかけだったがあった。きっと異国を旅して物売りをしながら地図を作ってんだなぁ。」 「そうだ、お前にあれをやるよ。メルカトルから買ったもんだ。」 そう言って、鍵付きの引き出しから真っ黒な翅根筆(ハネペン)を出して私に握らせた。 「酔い呑れ烏の翅根筆だ、北の方は寒いから雪のように光沢がある翅なんだ。光に当ててみろ。」 黄色っぽい蛍光灯にかざすと薄ら黄金色に瞬いた。くるくる廻すと浅葱色、ぱたぱた煽ぐと唐紅。 「不思議な翅だろう。気に入ったか。」 「…うん。すっごく………。」  爺ちゃんの悪戯っ子のニヤリとした笑い方はいつも私の隙間を埋めていく。爺ちゃんの部屋を出る度、幾分か足がふわつく。 「ありがと、爺ちゃん。」
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