未来の約束

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未来の約束

 夏休みが明けて、私は志望大学を決めた。  10月になれば教室内はもう推薦の話題で持ちきりだ。10月半ば、私と田中くんは美術部を引退した。田中くんも部室でなくても受験に特化した勉強はできるようだった。 「田中くんはやっぱり美大?」 「うん」  わかっていた。部室に来なければ私たちの関係にずれが生じること。 「来年は新入部員が入りますように」  部室の片づけを終え、鍵を閉めて手を合わせた。 「呪い?」  と田中くんが笑う。 「祈りでしょうが」 「そうか」  田中くんも真似してくれた。  それから私たちは教室の前後に並ぶだけのクラスメイトになった。田中くんが背後で鉛筆を動かしていても気にしない。私は勉強に取り組んだ。第一志望にはもう少し頑張らないと。今の成績で行ける大学を選んでしまったら田中くんを気にしてしまう。距離も離れよう。  あと半年足らずで卒業なのに学校を辞めてしまう女の子がいた。大きなチャンスを得たのだろうか。  私にもあったはずだ。毎年、コンクールには出した。結果を得られなかったのは自分のせいだ。運が悪かっただけ。田中くんと同学年で、彼の才能に憧れて、彼ばかり見ていた。  部活に行かなくなっている間に久瀬先生は学校を辞めていた。  私は夏にわりとお手入れしたはずの陰毛が復活していて、これが私の防衛本能のような気もした。  田中くんと挨拶しかしない日々が増えてゆく。卒業したら会えないことはわかっていた。だけれど、子どもだしどうしようもできない。咳き込む彼にたまに飴を渡すくらい。 「ありがと」 「うん」  もう友達以下だ。冬服に身を包む田中くんの裸を私はもう忘れてしまっていた。  そんな折、アキミチさんが私を描いた絵が7億円で売れたことがニュースになっていた。 『少女の微熱』というタイトルだった。夏の数日が蘇る。  あとを追うように久瀬先生の彫刻もなんとか賞を取った。『愛ある人』というタイトルが私にふさわしくない気がした。  受験が終わった頃、田中くんの絵も大人が参加する賞に入賞した。『彼女の視線』。落ち葉に埋もれる裸の私。裸のまま、田中くんの前で仰向けになったことはないから彼が想像しただろう私の体。  全部が私。どれもこれも寸胴の私。誇らしい気持ちと悲しみが湧き上がる。私は努力を怠った。絵に没頭できなかったこの高校生活がやっと終わる。絵の中の私とは決別できる。  彼らの作品はどれも私なのに、私だけが絵を残せなかった。テストなんかより優先するべきだったのに、高校生だから机にかじりついてしまった。そんなのは言い訳だ。後悔だ。  女としても未熟で、巨匠の愛人になるとか先生の正妻になることを望まず、ただの女子高生のままでいた。どうにでもできたはずなのに、私は結局私のままだった。欲深くないことはいいことだけれど、高みを目指さないこととは大きく違う。今更わかっても遅すぎた。  田中くんは展覧会から戻ってきた絵を私にくれた。『彼女の視線』というタイトルだったから私たちが恋人なのではと勘繰る同級生もいたらしいが、私と田中くんはすっかり疎遠になっていた。受験のせいでみんな休みがちになり噂も立ち消え。  30号のサイズだったから田中くんが家まで届けてくれた。 「ありがとう、田中くん。一生大事にする」 「うん」  帰ってゆく田中くんに声はかけられなかった。家族に見られたくなくて、祖父の部屋に隠してもらった。だからおじいちゃんだけには見せた。 「いい絵だね」  と祖父は目を細めた。 「そう思う?」 「うん」 「大学で一人暮らしをするときには持ってゆくから」 「じゃあ念のため」  祖父は白い布の上に祖母の薄紫の風呂敷を巻いた。 「おまじないみたい」  私は言った。 「これできっと誰にも見られない」  田中くんと話さなくなって寂しいとは祖父にも言えなかった。好きと断言しているようで。  部活も引退していたし、教室で会ってもそれ以外で顔を合わせることは皆無だった。背後で鉛筆を滑らす音しかしない。  お正月、私は田中くんを初詣に誘いたかった。勇気が出ず、終業式も大晦日も電話ができなかった。どんな気持ちであの絵を描いたのだろう。落ち葉も、それに似た肌の色の私も、きれいだった。  休み明け、 「おはよう」  と田中くんに声をかけた。 「おはよう。寒いな」  それだけ。私は田中くんと話したかったのだなと実感した。一緒にいたい。でも、若いからいられない。恋人同士ではないからそんなことが悔しい。  程なくして私たちは高校を卒業し、それぞれの大学に進学した。話したかったのに、卒業式の最後まで声が出なかった。気づけば田中くんは帰っていて、このまま生涯会わない可能性があることを寂しく悲しく思った。同じ美術系でも大学も違うし、田中くんは油彩科、私は就職を気にしてデザイン学科。  生きる道も違うのだろう。私は貧乏は嫌なの。あなたは、お金がなくても絵が描ければいいのでしょう。卒業式もそこそこに帰路についたのもそのためなのだろう。  大学に行ったら面倒臭がらずに美術史も勉強してね。唐突に思い立ってアルルに行ったりしないで。  ずっと絵を描いていてください。私は一人暮らしの部屋の隅に薄紫の風呂敷でくるんだままのキャンバスをいつも気にしている。アルバイトでたまに絵のモデルをしている。時給が安くても、もう服は脱がない。目ざとい人がいて、私をアキミチさんの絵のモデルだと気づいた輩がいた。 「違うよ」 と嘘をついても、 「似ている」 と諦めてくれない。 久瀬先生がインタビューで、 「知り合いの女の子がモデル」  と公言してしまったため私に辿り着いた同級生もいるだろう。もう過去のことだ。  あれから少し時間が経って、田中くんに対する気持ちに当てはまる言葉に辿り着きました。それは、もどかしいです。好きと言えなかったことだけではありません。田中くんももっと楽しく生きたらいいのだ。でもあなたはしないのでしょう。  ねぇ田中くん、お金がなくなったら、もどかしさを感じたら会いに来て。私は普通の会社で働いて、お金を貯めておくから。何年後でもいいよ。耳を削ぎ落す前に必ず連絡をちょうだい。田中くんの耳の形、ちょっと好きなの。もしもまた会うことがあったならもう一度、私の絵を描いて。少し痩せるように心掛けます。あなたの言い値で買うから。そのときだけは私もまた絵筆を手に取るでしょう。今度はきっちり、私も田中くんの絵を描きたいと思います。目を逸らさずにあなたを見るよ。ちゃんと心まで丸裸にするつもり。 おわり
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