私と田中くん

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私と田中くん

 人間は後悔をするために生きているのではない。でも、あのとき私がもう少し痩せていたら、性格がねじ曲がっていなかったら、勇気があったならば、本気で夢に向かっていたら、私たちは違うように生きていたかもしれないね。  先輩たちが卒業して、美術部は私と田中くんだけになった。高校三年に上がった私たちは新入生の勧誘に失敗。 「新入部員ゼロだよ。どうしよう? 二人じゃ部活って認められるのかな」  二人きりしかいないので、私が部長で田中くんが副部長。  私の心配をよそに、田中くんは淡々とキャンバスに向かう。 「新しい美術の先生が有名人だから大丈夫だろ?」 「田中くんは知っていても私は知りません」 「あの久瀬夏生だよ。まだ若いのに存命の彫刻家で一番有名じゃないか。高尾さん、それでも美術部の部長なの?」  なりたくてなったのではない。どう考えても田中くんに部長が務まるはずがない。絵を描くことが田中くんの人生の最優先事項らしく、それ以外どうでもいいというのがちらほら垣間見える。友達も作らず勉強もそこそこ。つまり、絵を描きに学校に来ているような男の子。 「知らないものは知らないの」  私はスケッチブックに石膏のデッサンの続き。うちの美術部の石膏は髪がぐりぐりのハンサムさん。田中くんは短髪で、いかにも洗ったままセットをしないで生活をしているのだろうことが窺えた。それもまた絵のためなのだろう。恐らく睡眠以外の時間の全て、彼は絵のことしか考えていない。  三年生になって、同じクラスになったら知ってしまった。私のうしろの席で彼は授業中もずっと絵を描いている。  いつからなのだろう。もうペンだこすらない。彼の普通は、普通ではない。訂正する人間はいなかったのだろうか。修正するつもりは田中くんにはないようだ。  私も絵を描くのは好きだ。ちょっとうまいだけ。小学生のときに賞をもらった程度。それを鼻にかけて中学で美術部に入り、今に至る。  上達しないのはなぜなのだろう。石膏の角度を変えても似たようなペタッとした顔になってしまう。答えを教えてくれたのは田中くんだ。言葉ではない。ほうら、部室であんなに背を丸めて、猫背というよりはあばら骨を内に潜めるようにして絵を描き続けている。彼の薄い体の側面を見て、ああ、私は絵に対して情熱がないのだと悟った。比べてはいけない。足元にも及ばない。絵を描くことに渇望していない。端から見れば、私は一般的で、田中くんは問題児。故に前の顧問の先生から半ば強引に部長へ決められた。  田中くんのほうが入賞経験があるのだから適任だと卒業した先輩は押したのだけれど、 「田中くんは絵を描いていたほうが…」  と納得させた。そう、田中くんが絵を描いていたほうがみんな平和なのだ。彼自身も、周囲も。部費の計算くらいはできても、他の一切を無駄だと思っている。前の部長さんは夏休みに動物園へ赴いて写生会をしたが、田中くんは絵が絡んでも人と行動することは嫌そうだった。無理矢理連れて来られたのに、集合時間になっても戻らずに最後まで象を描いていた田中くんを私は羨ましいとさえ思った。自由なのではない。本能なのだ。そして、才能もある。絵が上手いだけじゃない。努力すること、継続することも才能だ。当たり前に学校を休まない。授業中も部活の間も、きっと家に帰ってからも田中くんは絵を描いているのだろう。  春で日が伸び始めていた。部員が二人だから部室にはいつも二人きり。 薄暗くなる頃、 「高尾さん、デッサンいいかな?」  と田中くんが俯き加減に言った。 「うん」  これもいつからなのだろう。去年、三年生が秋に引退してからだ。寒くなる前だった。  大学の試験でデッサンがあるところは少なくなって来た。田中くん曰く、昨年の夏に行った予備校で裸体のデッサンをしたのだが緊張してうまく描けなかったらしい。女性の体に耐性がないせいだ。だから、私で練習をしたいと言い出した。  互いに恋人がいないからって、美術部員だからって、こんなことをしていいのだろうか。法律には触れないとは思う。校則にも違反していないはず。  恥ずかしくないのかと問われたら、恥ずかしいと即答する。しかし、美術室の石膏は胸部のみで、しかも布を巻いているから私だって生身を描きたかった。  そんなわけで、一緒にお風呂に入らなくてもセックスをしなくても、私と田中くんは裸の付き合いをしている。こんなこと、他の誰にも頼めない。  だいたい30分ずつ。  描かれているときは思わないのだけれど、描いているとき田中くんを男だなと思う。体つきのせいだろうか。その部分を結局は直視できずに周辺を丹念に描き込んでしまう。  いつも教室から一緒に部室に行くから周囲は私たちのことを素敵なカップルと勘違いしているけれど、そんなのではない。崇高でもない。私たちはただの、イケメンだけどゴッホ好きの変わり者細身男子と寸胴ピカソ好き女。共通点は美術部というだけ。 「いやあ、いつ見ても高尾さんの体は素晴らしいね」  服を着て廊下に出れば田中くんは絵描きから高校生の顔に戻る。 「は? 嫌味?」  私は160センチで50キロちょっとあり、正確に言うとダイエットをしても55キロ周辺を行ったり来たりで、細いほうではない。どちらかというと筋肉質。  まだ校庭ではサッカー部が練習をしていた。それを見つめている誰かの彼女のようにわかりやすい恋に私も憧れる。歩調を合わせて歩かない田中くんを好きになっても疲れるのは自分だ。 「じゃあ、また」  と校門の前で田中くんと別れた。 「うん、また明日」  裸になるのは毎日ではない。田中くんが言い出した日だけ。美術室はそれほど温かくないから寒すぎない日。それから全裸になるから私が生理ではない日。  田中くんはきっと、私の体は好きでも私自身は好きではないのだろう。肉づきのせいで絵に描きやすくないからだろう。難易度の高いゲームを好きな人は一定数いる。  私だって、田中くんへの気持ちは曖昧だ。 「ただいま」  うちは両親と、この春から兄が大学進学のために出て行った代わりに一人暮らしだった祖父が同居を始めたから四人暮らし。両親は若干の長男教。祖父が開業医だからなんとしてもそれを兄に継いでほしいという願望が強すぎる。兄が期待に応え医学部に進学したおかげで、私への縛りはほとんどない。 「まひる、おかえり」 「おじいちゃん、ただいま」  父は絵本の出版社で働き、母は私が小さいときからずっと本屋でパートをしている。祖父の知人や父の仕事の関係で絵が好きな人は周りに多いけれど、その分、苦労も知っている。だから私は、そちらの道に進みたいとは言い出せずにいる。  夕食は母が作り、父もそんなに残業はないから家族で取ることが多い。  兄が家を出て、おじいちゃんが来てくれたおかげで家の空気が変わった。昔よりは居心地悪くない。なぜか、おじいちゃんだけには小さな悩みまで話せた。 「絵は好きだけど、田中くんみたいにはなりたくないし。でも今は絵を描くこと以外に夢中になれることがない」  食後、祖父の部屋で胸の内を言葉にしてみた。 「そうか」  と言って、祖父は祖母が好きだった画集をくれた。古くて、かび臭かった。それを捨てられない祖父を愛しいと思った。  祖母は私がうんと小さいときに亡くなってしまったから記憶がない。祖母の好む絵はきれいな天使の宗教画などで、私の好みではなかったけれど、私もこの画集を捨てられないのだろうと思う。  安定志向の両親が望まない美術部でい続けるために、私は滅茶苦茶勉強をしている。学年上位をずっとキープ。田中くんは絵ばかり描いているくせに、然程勉強ができないふうでもない。  祖父はだいたい9時には就寝する。私は自室でラジオを聞きながら勉強しているので、その時間から少しボリュームを下げる。芸人さんでなくても話の旨い人って尊敬する。そして、彼らに人生相談ができるリスナーを羨ましく思う。私は私の気持ちを発信したことがない。兄がいるとき、苦しかった。田中くんへの感情。将来の不安のようなもの。  そりゃ私の年代でそれらのことに悩まないほうがおかしい。だけれど、私は悩みを祖父以外には吐露できない。休み時間に話し合う程度の友達ならいる。その中の誰もが真剣に生きていないわけではないだろう。しかし私は私の心を解放できない。甘えられないのとも違う。人を信用できないのかもしれない。  むしろ、裸を見せ合っているせいで田中くんとの関係のほうが本物の友情っぽい。私は田中くんが讃える腹回りがコンプレックス。きれいな体の田中くんにも恥部があるのだろうか。かき消すために絵を描いているのだろうか。きっと違う。  その田中くんは休み時間にも絵を描いているからクラスメイトからは奇人と思われている。そのほうが楽なのだろう。でもごく稀にお菓子のパッケージに興味を示したり、社会の教科書の挿絵に見入ったりしている。私のうしろの席でも、なぜか彼の思考がわかってしまう。  これは恋じゃないはず。何度もそう自分に言い聞かせていた。
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