久瀬先生

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久瀬先生

 美術部顧問になった久瀬先生は5月に入ってもちっとも部活に顔を出さず、田中くんは待ち遠しいようだけれど、私は雰囲気だけで女子からモテる先生が気持ち悪かった。顔は普通なのに、髪がそこの石膏のようにクルクルなだけでかっこいいとみんな騙されている。それに彼の経歴が拍車をかける。  確かに彫刻家としては有名らしかった。賞を取った少女の像が大きな公園や美術館に展示してある。そんな人がなぜ高校で教鞭をとっているのだろう。もしかして女の子が見たいのではないだろうか。先生の彫刻のほとんどが少女だったから私はそんな仮説を立てた。学校ならば女子高生がうじゃうじゃしている。そう思ったら余計に先生を気持ち悪いと思い込んでしまった。  授業を終えて美術室に向かうときに私は生き返る。  毎朝、学校に行きたくないなと思う。授業というよりも人に疲れて疲弊する。あからさまなマウント、見えないヒエラルキー。エネルギーゲージは減る一方。  美術室では愛想笑いが必要ないからだ。田中くんはいつも職員室に鍵を取りに行って部室を開けてくれる。上でも下でもなく部室では横にいてくれる。 「二年はいいな、久瀬先生の授業があって」  田中くんが言った。美術の授業は一、二年生のみで、しかも選択制。 「三年は受験だから仕方ないよ」 「俺たちには関係あるじゃないか」  と田中くんは私も同一とみなしてくれる。田中くんは本命以外の受験を考えていないが、私に合いそうなところまで探して、 「ここに推薦なら絵は先に提出だけでいいみたい」  と情報をくれる。私はまだ、そちらに進むとは田中くんにも話したことがない。部長までしているから当然だと思っているのだろうか。絵を描くことは好き。でもそれだけじゃ生きられない。絵はお金がかかるし、あなたみたいな人がたくさんいる中では自分を見失うだけだ。そんなこと言えずに私はいつもの石膏の前に座る。 「久瀬先生、顧問なんだから来てくれてもいいのに」 「そんなに有名な人がどうして公立高校の美術の先生なの?」  私は木炭で石膏に向かいながら存在しない瞳を描いていた。 「スランプかな」  田中くんが言う。確かに、ネットでも久瀬先生には気持ちの悪い噂があった。  少女像に定評があるのは女の子のスカートの揺れが巧妙だから。そのせいでロリコンって、こじづけにも程がある。されど、私の仮説から遠からず。芸術家にはそういう尾ひれがついて当然なのだ。それも踏まえて、 「あの先生、メンタル強そうだけど」  と私は言った。 「芸術家は神経質なんだよ」  田中くんとは意見が合わない。それでも私たちは罵ったり、耳を削ぎ落したりしないのだ。田中くんは私の絵にも無関心。  ただ、静かな中で絵を描く。心と対峙しているわけではない。単純に絵を描くことが好きなだけ。  こんなに早い段階からそれを見つけられたのはラッキーだ。同じ年の人が自殺したニュースを耳にするとそう思う。私だって時折死にたくなる。兄と暮らしていたときは毎日。父の期待、母もあからさまだった。兄のほうがおかずが一品多い。そんなことで自殺したら両親も兄も笑ったのだろうか。  絵を描くと魂が浄化されるほどではないが、全てがどうでもよくなった。私の感覚と田中くんはまた違う。彼は苦しみから逃れるために絵を描いていない。息を吸うように、田中くんにとっては生きることイコール絵を描くことなのだろう。  今は6月のコンクールに向けて、田中くんは窓から映った細い木の枝の風に揺らされる影を描いている。去年も田中くんは優秀賞で部長は佳作だった。部長も美系に進学したけれど、田中くんのことは毛嫌いしていたように思う。彼女は人と仲良くなるために絵を描くような人で、しかも平和主義者だった。うちとけない田中くんが、そのくせ腕が立つ田中くんを嫌いになる気持ちもわかる。そして田中くんは部長を嫌いでもなかった。好きでも嫌いでもないレベルの認識。だって田中くんは絵を描くこと以外はどうでもいいから。部長の心はこんぺいとうのようで、田中くんの気持ちはずっと楕円形に私には見えた。田中くんも少しは合わせたらいいのに、ブレない。それが彼の標準だから周囲とはぎくしゃくするばかり。先輩が女性ばかりだったのも運が悪い。部に男が一人から、なんとなくモテて、しかし懐柔されることもなく、田中くんは全員が好きでも嫌いでもなかった。先輩の名前すら憶えていなかった。私たちが一年のときは三年生が男性ばかりだったから、それ目当てで入部しただろう女たちが美形な田中くんに目移りする気持ちもわからなくはない。  彼女たちが引退したときはほっとした。部室から変な気持ちが蒸発してさっぱり。田中くんはそれすら感じなかったのだろうか。  なぜ私は、こんなに人の気持ちがわかってしまうのだろう。私の気持ちもこんぺいとうの時期があったと去年の部長に伝えればよかった。話す機会がなかった。人間関係は縁とタイミングが需要なのだろう。  今はそんなにつんつんしていないとも言いたい。治ったのではない。デッサンをしながら木炭を指でぼやかせるから私の手は汚れる。汚い自分の指を見ると私の心は反対に穏やかになることに気づいた。  しかし、絵を描ける時間は短い。一日のうちのたった数時間。 「高尾さん、デッサンいいかな?」  田中くんのその申し訳なさそうな顔がちょっと好き。 「ああ、うん」  C70のブラを外しても羞恥心は拭えない。私はずっと恥ずかしいから私を描く田中くんを直視しない。本当は、見たいのだ。湾曲した背中、細い指、私を見ている瞳。  でも、それらを見たら恋に落ちてしまうから、田中くんのような変人に恋をしたら大変なのは自分だろうからブレーキをかける。田中くんと同じ立ち位置で絵を描く女の人がいいのだろうか。  恋人は普通の人がいい。寝食を忘れて絵を描くような人は嫌だ。現に部活中にトイレに行くのが億劫でペットボトルに用を足した田中くんには引いた。  素っ裸になると、いつも鳥肌が立つ。寒いからではない。  未熟な私は陰毛の処理の仕方もわからんのだ。そんな私を田中くんが眼に映す。  田中くんも無頓着である。薄い体に、そこだけ森みたいになっている。体の線は描けても、私はどうしても陰部を描けずにいた。どんなに才能があっても私はダビデ像が作れないだろう。  今日も30分程度の交替制。  私だって田中くんの裸を見ても欲情はしない。角ばった自分とは異なる肩を描くだけ。私とは違い、様々な箇所の骨が浮き彫りだ。田中くんの裸のほうが絵としては難しいのかもしれない。自分では見慣れてしまって、描きすぎていてその体に慣れているだけだ。同じ人間でもまるで違う。男と女だからではない。鎖骨がきれい。骨と皮膚の都合で、私にはない凹凸が見受けられる。鎖骨もそうだし、二の腕、太腿にも。あんなふうに自分の体にくぼみがあったら水を垂らして遊んでしまいそう。  緊張感はあって、足音が聞こえると息を殺した。美術室は二階の端。その隣の準備室を主に部室としている。この時間、美術室に用事がある人間などいるはずないのに、その足音が近づくとどちらかが裸に大きな布を投げたりした。 「うちでも描きたいから高尾さんの写真撮りたいって言ったら変態?」  田中くんが悪い人ではないことはわかっている。でもわかっているのは私だけなのだ。世間様は田中くんを理解できない。 「なにかあったら困る。スマホを落とすとか、うっかり誰かに見られるかもしれない」  と私は断った。 「そうだよね」 「記憶して。私もそうするから」  田中くんの体は、デッサンのときはさすがに背筋を伸ばしてくれて、お尻がきゅっと縦に長い。 「例えば漫画に出てくるような胸がデカいだけの体じゃないんだよ、高尾さんは」  褒めているのか貶しているのかわからない物言いをした。デッサンされる側になるとなぜか饒舌。 「田中くんの裸のほうが私には異質だけどね。背が高い分、ここの距離がある?」  私は自身のお腹を掴んだ。 「胴が長いのかな?」  背は175センチくらいらしい。 「痩せているから細く見えるんだよ。ちょうど骨がない位置だし、肉付きが私と違う」  男なのになんでくびれているのだろう。 「高尾さんは詳しいな。おじいちゃんが医者なんだっけ?」 「関係ないでしょ?」 「家に人体模型とかないの?」 「ないよ。眼科医だし」 「目か。画家にとっては重要な部分だよね」 「そうね」  胸部と太腿ばかり描き込んでしまう。足のすね毛を書き込んだ画家はいただろうか。  私は異端になりたいわけではない。  突然ガラッと引き戸が開いて、しまったと思った。足音が聞こえなかった。 「美術部だよね? 顧問の久瀬です」  今日も頭ぐりぐりの久瀬先生は素っ裸の田中くんを一瞥しただけだった。 「部長の高尾です。それと、副部長の田中くんです」  私も座ったままだった。 「デッサン?」 「は、はい」  咎められると思った。久瀬先生は私の絵を見てくすっと笑った。 「あなたは、嘘がつけない人だね。まだ画力は伸びるよ。その努力を怠っている自覚もある。線が迷ってばかりだ」  一流の人って嫌いだ。一瞬で人を見抜いて、ズバッと言う。しかも悪気なく。  久瀬先生は田中くんのスケッチブックも見た。それはつまり、私の裸である。 「どうでしょう?」  田中くんは久瀬先生に自分の絵を見てもらえるだけで嬉しいようだ。シャツに袖を通しボタンを留めないから色っぽい。  久瀬先生は田中くんと同じ背丈で痩せ方も似ていた。 「基礎はあるようだね。うん、これは絵よりもモデルがいい。高尾さんだっけ? 僕のモデルにもなってくれないだろうか」  突拍子もないこと言いだすのが芸術家ではない。 「は?」 「二人にとっても利点がある。僕は君たちの秘密を守るよ。こんなこと芸術のためとはいえ許されない」  急に教師の顔をして久瀬先生は言った。釈然としないまま家に帰って、湯船に浸かりながら、交換条件というよりは脅迫のような気がした。そうだ、芸術家のくせに弁が立つから久瀬先生を好きになれないのだ。田中くんみたいに会話すら面倒臭そうなのが本当の芸術家のはず。新学期の挨拶に登壇したときから思っていたことが今はっきりした。人に好かれたいというのが滲み出ている。前の部長さんだったら、それはそれは楽しい部になっただろう。  私は田中くんの味方であってほしいのに、その田中くんが久瀬先生側につく。 「僕の前で脱いでいるのに先生の前で脱げない理由がわからない」  とまで言い出した。 「女だから」  と自分で口にしながら、その言い訳が自分の首を絞めているような気がした。  久瀬先生はちょくちょく部室にやって来て、 「裸カーディガンでもいいよ」  とそれを私に渡した。ベージュで、肩から腕にかけて白と赤のラインが入っていた。 「これを着ても大問題では?」  私は言った。 「イメージで描いたと言い張るよ」 「先生は彫刻の前にデッサンをするんだよ。その絵も評価されてるんだ」  田中くんが得意そうに言った。 「へえ」  私には関係のないこと。 「描いて描いて、想像を膨らませないと」  久瀬先生はとても嫌な目をしていた。田中くんも稀にする。俗世のことなんて関係ないと言わんばかりの瞳。  アーティストにだって住民票はあって、野菜とか肉とか食って生きてる。世の中からは離れては生きていけないはずだ。画家も食わねば死ぬ。清潔にしていなければ痒くなるだけ。  それからも久瀬先生はレオタードとかスク水とか、私が頷くように白あんの苺大福まで買ってきて口説き落そうとする。おいしいけど。 「嫌です」  今日も私は提案を突っぱねた。 「俺がやりましょうか?」  田中くんが夏服を脱ぎだす。 「男は想像力をかき立てないんだ。ごめん」  と素直に謝る久瀬先生がちょっとおもしろい。 「いや、それ今の時代アウトですよ。女尊男卑?」  私は言った。 「高尾さんは真面目なんだから。そういうところも好きだけど。大人になったら一緒にお酒を飲もうね」  調べたところ久瀬先生はもう30代半ばだった。その頃には私はしっかりした大人になっていたい。田中くんのことは容易に想像できる。絵を描いているのでしょう。画商の娘に言い寄られて、そのまま結婚して、子育ては奥さんのワンオペで、それでも時たま幸せを与えたり感じたりしているのだろう。  久瀬先生が帰れば、鍵を閉めて私は服を脱ぐ。 「先生のお願いされたから言うわけじゃないけど、僕よりも先生に描いてもらったほうが高尾さんのためのような気がする」  田中くんの手元を見たら丹念に乳輪を描いていた。こそばゆい。指でこすったりしないで。今更恥ずかしくなって、 「はい、もう交替」  と私はブラを身につけた。 「高尾さんのその後ろ姿、好きだよ」  知ってる。田中くんは私を好きではないってこと。体の表面だけ、ブラをつける仕草だけ好きなのだろう。  私だって描きたい。今日は骨盤まで。近づいている。影をつけた。女と違って、田中くんは骨盤周辺の変なところがへこんでいる。  思春期だから男の体に興味があるわけではない。田中くんのそれを描けないのは田中くんが好きだからでもない。勇気がないのだ。画家としての根性もない。静物として描けばいいだけだ。  家に帰って勉強してもそれのことばかり考えてしまう。田中くんが試験に慣れたい理由は、そこを変異させたくないためだと思っていた。田中くんは私の裸を見てもそれを硬化させたことなんて一度もない。たぶん。 「だめだ、集中できない」  ラジオからは古いロックが流れてきた。大人は我々世代が悩む姿を勝手に微笑ましく見ているけれど、こっちから見たら大人だって大変そう。父は残業だし、母は新刊続きでぎっくり腰寸前。おじいちゃんは兄が一人前になるまで医院をやめられない。  私の体を見たがるだけの彫刻家の久瀬先生だって生活のために教師をやっているのだろう。かわいそうになって、とりあえず制服のままのデッサンなら承諾した。 「立って。左足ちょっとうしろ。体ひねって。右手上げて。そう、そのまま」  なんのポーズなのだろう。  田中くんと久瀬先生が並んで私を描いている。 「先生、わかりました。これ、おはようのポーズですよね」  私の言葉を二人で無視する。これだから芸術家は嫌いだ。自分の世界にのめり込んで他の一切合切を無視する。  私は床に映る木の葉の影を見ていた。田中くんが稀に囚われたように描いている一部だ。なぜそんなものを好んでモチーフにするのか私にはわからない。桜が散って濃い緑の葉が勢いよく芽吹き、梅雨に入ってからそれはますます色が濃くなった。  季節の移ろいが愛しいなんて、あなたはやっぱり絵描きだね。 そろそろコンクールの絵を仕上げなければならないのに、私は題材すら決まっていない。大きな油絵を描きたかったが、何も思い浮かばない。  絵が描きたい人間はモデルをやるべきではない。その筆音がフラストレーションになる。  しかも、田中くんが描いた私はきちんと制服を着ているのに、久瀬先生が描いた私は全裸で宙に浮いていた。 「やだ先生、変態」  じっとしていた自分が情けない。 「仕方ないじゃないか。イメージが湧いてしまうんだから」  久瀬先生は言い訳もしない。 「先生、高尾さんはこんなにくびれていませんよ」  と田中くんが私のデッサンを見せる。 「そうなのか。ひねれば多少は」  そう言いながらも先生は絵に描いた私のウエストにお肉をつける。 「ならないんです。高尾さんはひねっても伸ばしても寸胴なんです」  と田中くんが言い切る。 「腰が張ってるのか。見たいな。よし、やっぱり次はスク水にしよう。それならいいだろ?」  久瀬先生をぶん殴りたいのに、彼が想像で描いた私はちょっと色っぽくて嫉妬した。少し痩せたらこんな体になるのだろうかと勘違い。 「本当に絵はうまいんですね」  腕の太さや足の短さが私の生き写しで笑ってしまった。顔のパーツは悪くないのにバランスが悪い顔も見事だ。 「裸になってくれたらもっと描ける気がする。もっと描いたら、高尾さんの生々しさは彫刻ならブロンズ、いや木がいいかな。ああ、でかいのが彫りたくなってきた」  想像力が逞しい久瀬先生をよそに、私は田中くんに断ってふくらはぎの写真を撮らせてもらった。毛が不規則で、毛先はくるんとしているものもあって、面白い。そう言うと、 「思ったことないよ」  と田中くんは自分の足を凝視した。  その毛の気持ち悪さを表すには立体がいいだろうか。コンクールに出すなら版画も立体の部門になるはず。久瀬先生なら教えてくれるだろうか。でも今からでは絵も間に合うかどうか。  そのあと田中くんは黙って制服の私を少し修正していた。そちらもまた、見事に私。胸やお尻を強調すればメリハリボディになるのだろうか。それよりも痩せるべきなのだろう。田中くんはどんな人が好みなのだろうか。絵のために裸になる女は嫌いだろうか。  イケメンの田中くんと仲良くしても、女子に人気の久瀬先生にケツを追っかけられていても、私は周囲から嫌われないように心掛けた。教室では常に愛想笑い。ピカソ好きを公言しているから変な子扱いでいじめられたりはしない。仲のいい子がピカソとダリを間違えていても私は訂正しない。  友達の括りにしている女の子は三人。私も含め、ずんぐりとした見た目の私以外はアニメ好き。アニメが好きだと絵も好きらしく、美術展は行かないけれど、原画展や聖地巡礼に連れて行ってくれた。一人は本気で漫画を描いているから背景を頼まれることもある。  私は、彼女たちが好きではない。  彼女たちは口をそろえて、 「あのアイドルがかっこいい」 「今度のアニメはクソだ」 「その女優嫌い」  って、あなたと彼女に接点があるとは思えない。好きとか嫌い以外の話がないのだろうか。否定が好きでやや攻撃的。そうしないと何かに押しつぶされそうなほど弱い。  身近な久瀬先生を嫌いになって私は理解した。よく知らない人を嫌いと言えるだけのエネルギーが彼女たちにもあるのだ。そうだ。かつてはゴーギャンもゴッホに嫌いと伝えた。私の目の前の彼女たちに言いたい。言うべきだ。  間違っている。あなたたちが嫌いだと。そのよく動く口の動きを見ているだけでげんなりする。同じように絵を描いているのに田中くんの心は美しくてなぜ彼女たちは汚くなる一方なのだろう。美しい夕日をどちらも見ているはずだ。  しかし、もう三年生だ。彼女たちとは卒業までの付き合いになるだろう。  私が部活に入っているのは友達を私の領域に立ち入らせないため。美術部展が開催されれば来てくれる程度の友達でいい。  コンクールには間に合った。田中くんと出品票に不備がないかなど幾度も確認しながら、田中くんが私の絵に驚いていた。 「僕の足だよね?」  困惑したように田中くんが聞く。 「そう」  それしか集中して描けなかったのだ。 「気持ち悪いよ」 「毛が芸術的でしょ?」 「審査員がおじさんばかりだからいい印象ではないだろうね」  自分にないものが不思議の気持ちは伝わるだろう。田中くんはいつも私の胸をぷっくり描くけれど、実際はそんなにつんとしていない。饅頭に近い。男の幻想が勝手に乳をそうさせるのだろうか。 田中くんは部室でずっと描いていた葉の影の絵。何枚か描いて、一番いい構図のものを大きく描き直した。 「大きくしたら躍動感がなくなった」 「うまいよ。地味だけど」  私は言った。  去年、田中くんはデッサンをする先輩方を描いていた。精密に描いたから副部長の胸の膨らみとか、メガネ先輩の開いたままの口とか描いてしまって叱られていた。本当なのだから仕方ない。  田中くんは今年の自分の絵を見てはっきりと言った。 「よく描けたと思う」  白と黒とグレーだけ。葉の影だから確かにそうなのだが、ぱっと見では目が行く色彩ではない。 「葉をピンクとかにしちゃえばよかったのでは?」 「高尾さんはピカソが好きだから」  この出展がすんだら田中くんは受験に専念するのだと思っていた。  彼には無理だ。授業中にすら、古典の教科書の挿絵を模写してしまう男だった。  その田中くんを久瀬先生が丸め込むのは簡単なようだった。絵が好きで、純朴な青年を操る術など大人には容易い。久瀬先生は卑怯だ。 「受験の相談を受ける」 とか、 「うちに画集を見に来いよ」  と言い包めたに違いない。きっと、 「高尾さんも一緒に」  と言ったのだろう。  田中くんに、 「一緒に行こうよ」  と誘われたら、私が断らないことまで計算していたのかもしれない。  わかっていたけど久瀬先生は芸術家一家で、お父さんは美大の先生でお母さんは花器を作る陶芸家だった。 「祖父のアトリエだよ。どうぞ」  小屋というよりは倉庫。  一等地に、家もでかいのに、敷地内に小さな建物が点在している。  倉庫の屋根と壁に数ヶ所だけ正方形の窓があった。 「光で遊んでるような空間ですね」  私は言った。  田中くんは描きかけの放置された古いデッサンや、きっと若かりし先生の造作物の残骸に見入っていた。  ニスみたいな鼻につく匂いがほんのりする。古い不道具がたくさん並んでいる。絵描きは筆だけれど、彫刻は彫刻刀から、ミノ、チェーンソーまで使う。 「ほら高尾さん、そこに立って」  久瀬先生が光の集まる一角に私を導く。 「はぁ」  しぶしぶ私はそこに誘導された。  家に呼びよせてお茶も出してくれない。 「いいね」  久瀬先生は椅子に座らせてくれない。立っている私が好きなようだった。 「先生、これは?」  壁掛けの肖像画を田中くんが指さす。 「祖父が祖母を描いたものです」 「かっこいい。レンブラントみたいだ」  田中くんは背景の黒を凝視している。私は人物を見てしまう。 「きれいなおばあさまですね」  ドレスのようなものを着ている絵だった。こっちを見ているように見えるのはおばあさまが絵を描くおじいさまを見ていた証だろう。 「あの年代にしてはハイカラな人だったよ。バイオリンを弾いていた」  久瀬先生がスケッチブックを広げた。 「そうですか」  久瀬先生は自分だけ丸椅子に座って私を描き始めた。真似して田中くんも。ベージュのスキニーを履いてきて正解だ。白のトップスで体のラインを隠す。制服よりも肌の露出部分は少ない。それなのに久瀬先生が、 「高尾はいい体してるな。変な意味じゃないぞ。肉感が素晴らしい。尻がいいな。こう、後ろ姿が肉々しい感じがたまらない」  と言い出す。 「肉、肉って、私そんなに太ってません。160センチ、54キロって普通でしょ?」  田中くんが、 「女体として最高って褒められてるんだよ」  と補足しても受け入れられない。 「久瀬先生、JKを裸にしたら怒られますよ。先生続けられなくなりますよ?」  私は言った。 「教師はバイトみたいなものだから。若い子見ていたら創作意欲も刺激されると思ったんだが高尾さんだけだ」  そこから男二人は黙り込んで、ひたすら手を動かし続けた。人間の集中力は60分程度らしいけれど、とうにそれも越え、日が西に傾いて来た。そうすると窓に差し込む光がまた変わる。  先生が真剣に描いた私はちょっとかわいかった。ちゃんと服も着ている。 「おだてて脱がすつもりですね」  と田中くんが指摘する。 「そんなつもりはないけど、制服よりは表情が柔らかく見えた」  久瀬先生は私の心を見透かすからやっぱり嫌い。  田中くんの絵はいつも通りの無様な私。 「もう少し足長くしてよ。寸胴っていうより短足なのかな」  絵を見ている間に久瀬先生がお寿司を取ってくれて、それを洋館のような家で食べた。 「先生の親は?」  田中くんが聞いた。 「旅行」 「海外ですか? いいなぁ。オルセー行きたい」  田中くんと旅行なんて美術館しか行かないのだろう。 「ルーブルじゃないんだ」  と私と久瀬先生が同時に発した。 「あの自画像が小さいんだもん。好きだけど」  そう言えば、田中くんは自画像を描かない。ゴッホを越えられないとか思っているのだろうか。手を描いているのは見たことがある。自分の顔はそんなに好きじゃないのかもしれない。 「英語だとHの発音をしないんだよ」  久瀬先生が教えてくれた。 「そうなんだ」  そう答えながら、田中くんが半分以上食べられないと言い出した。 「お寿司嫌いなの?」  私は聞いた。 「これはサーモン、これは鯛。わかってるのは食べられる」 「これはスズキ。こっちはヒラメかな」  先生はそんなことにも詳しい。 「大人になったら、私もいろいろ詳しくなるのかしら」  そんなことを呟いていた。 「なるよ」  このままではいられないのだろう。この敏感さは薄まるのだろうか。大人になっても誰かを好きになったり嫌われたりするのだろう。絵が好きなことをバカにするような男の人だけは嫌だ。絵を好きすぎる人も嫌だ。 「先生、夏休みの予備校、ここにしようと思うんですけど」  田中くんがパンフレットを見せる。 「ここじゃ泊りだろ?」 「はい。親はいいって」 「田中はボンボンか」 「普通の家っすよ」 「普通の家ならお金のこと以上に子どもの心配するだろ」 「俺がいないほうがうちは平和なんすよ」  二人の会話を私はぼんやりと聞いていた。変人なのに、将来を考えている田中くんに自分が劣っていることに気づいた。田中くんも孤独を感じているのだ。その弱音を私に吐いてほしいのに。  夜だったから、田中くんは家まで送ってくれた。 「夏だから変質者が出るかも」  と手までつないで。  なぜなのだろう。芸術家は孤独でなければならないのだろうか。そんなことないって言ったらよかったのだろうか。 「あの星わかる?」 「知らなくても生きてゆける」  って言ったのは私の強がり。この時間が止まればいいって思いながらも足は家に向かって歩みを進める。ほんの少しだけ遠回りしたの。その手を離したくなくて。  それからも久瀬先生はしたたかに私を口説こうとする。他の先生の耳にも入って咎められても、 「彼女の体全体が芸術なんですよ」  と突っぱねる。  共感する先生などいない。久瀬先生は教育者ではなく芸術家なのだ。田中くんと私のことは秘密にしてくれているようで、よくよく考えたら受験生なのに停学とか困る。 それでも田中くんに頼まれたら私は美術室で裸になってしまう。私が裸になったときにだけ田中くんが口数が多くなるのは互いに不安にならないためだろう。いつものスケッチブックじゃなくてちゃんと止め紐のついたスケッチブックに描いてくれてありがとうっていつか言おう。同じものを私も買った。
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