花の名前と、きみの匂い。

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病院を出て、近くにある自宅マンションまでの少しの距離を歩く。 つい先月まではこんな夜でも()だるような暑さだったのに、9月も終わりに近づいてきた今では残暑の中にも微かに秋の訪れを感じさせるような涼やかな風の色を感じるようになった。 ―今日の晩御飯は何かな。 そんなことを考えながらも、切り替えがあまり上手でない僕は、今日診察した患者さんたちのことをつい思い出してしまう。 ヒート抑制剤をたった一度飲み忘れてしまっただけでそれまで仲が良かった職場の同僚に襲われてしまった女性や、本人は大して気にしてなさそうなのにも関わらず、付き添ってきた母親がΩだなんてあんまりだと診察室で泣き叫んでちょっとした騒ぎになった13歳の初診の中学生の男の子。 早く番を見つけて煩わしいことから解放されたいと検診の度に毎回ぼやく、32歳の男性。 今日も、どちらかといえばΩであることに悩み苦しんでいる患者さんの方が多かった。 その中で、5年前にΩと判明し、初診の時から担当している20歳の男の子。 抑制剤が良く効く体質で、ずっとヒートの周期が安定していたのに、近頃予期せぬ、しかもなかなか治まらないヒートに困っていた。 ある可能性に僕は問う。 やはり、その時には必ず特定のαが近くにいる、と彼は答えた。 …それは所謂「運命の番」というやつだった。 ここ数年でその作用機序が少しずつ解明されてきたとはいえ、なぜそんなものが存在しているのか10数年オメガ外来で働いていても未だにわからない。 別に運命でなくても、番になっているαとΩの方が世間一般には多いのだ。 都市伝説と言われてきたように、出会えることの方が少ないような存在だ。 その20歳の彼が少し頬を赤らめ、視線を伏せていた様子を見れば、きっとまんざらではない相手なのだろう。 でも、その相手の前でヒートが起こるのは困る、と話していたことから色々と事情があるのであろうことは察することが出来た。 運命の番だろうと何だろうと、互いに想い合い、互いを尊重しながら共に添い遂げられるαが見つかればそれでいいのだ。 …一番悲惨なのは、途中で一方的に番関係を解消されたΩだ。 ふいに悲しげに顔を伏せる面影が浮かんで、僕の胸はピリッと痛んだ。 初秋の夜の風に、僕の思考は次々に移ろっていく。 『彼』と初めて出逢ったのも、こんな季節だった。 少しだけ締め付けられるような痛みを覚えた心のまま、夜空を見上げる。 ほんのりと柔らかな光の輪を作る、丸い月が見えた。
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