花の名前と、きみの匂い。

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「ただいま。」 玄関のドアを開けるとふわり、と鼻を擽る出汁の利いたいい香りがする。 カチャ、とリビングのドアが開いて彼が静かに顔を覗かせた。 「ただいま。」 もう一度言うと、すたすたと傍に寄り、僕を出迎えてくれる。 頭を撫でるように手を伸ばすと、彼は甘えるように僕のその手を取り彼の柔らかな頬へと擦り付けた。 「いい香りだね。今日は和食?」 「…。」 彼は少し表情を緩め、小さく頷く。 僕の鞄を受け取り、案内するように僕の手を引いていった。 彼―宮路 桂人(みやじ けいと)は声を出せない。 「心因性失語症」というもので、強いストレスなんかが原因で話せなくなってしまうものだ。 一年前、初めて彼に会った時には既にそんな状態だった。 今ではだいぶ彼自身、落ち着いたように見えるものの、未だに彼の声が戻ってくる気配はない。 そんな彼は一見すると女性と見間違えてしまいそうな程美しい容姿を持つ。 色素の薄い髪に、同じく透き通りそうなほどきめ細かい、陶器のような白い肌。 おっとりとした印象を与える二重の大きな瞳は、吸い込まれそうな薄茶色だ。 す、と通った鼻筋に形のよい薄い唇。 折れてしまうのではないかと心配になりそうなほど細身の身体は、スタイルのよい長い手足が際立っていた。 その立ち姿を見ていると、「儚い」という言葉は彼のためにあるのではないかと思う。 声を発せないから、というのはもちろんあるかもしれないが、とにかく彼の周りは音が消え失せたように静かなのだ。 雪が降りしきる雪原や、今日のように月がぽっかりと浮かぶ秋の夜空のよう。 彼と暮らし始めて1年近くになるが、そんな彼との暮らしは穏やかで、静かで、愛おしくて。 それでいていつもどこか切なかった。
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