第2章 その2

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第2章 その2

 現場は新宿にある77階建ての超高層マンションだった。タクシーを降りて手を翳し見上げるが、霧のかかった上層階は目視することさえ出来ない。 「やっぱり……」  そこは木根浩二をナイトメアに引き込むとき参考にした、超高層のタワーマンションだった。たまたまテレビの特番で見かけたのだが、実際に見るのはこれが初めてだ。  小さくため息をついて辺りを見回す。向かいのビルのガラスに赤色回転灯の光がチラチラと反射しているのが見えた。駆け足で向かったその先にマンションのエントランスがあった。既に数台の警察車両が横付けされ、その前で立ち話をしている男たちがいる。その中に小柄で年配の男性、岩本辰五郎刑事の姿があった。 「岩本さん。遅くなりました。津田さんもお疲れ様です」 「おうマロ、早かったじゃないか。俺もたった今着いたばかりだ」 「おはよう、麻宮刑事」  岩本さんは一瞥しただけだったが、鑑識官の津田さんは新人の私にも丁寧な挨拶を返してくれた。しかしすぐにふたりは雑談に戻った。その内容は仕事と関係ない下世話な話。そんな岩本さんの後姿に少しふてくされて視線を送る。 ――あれは私が念願だった警視庁刑事部捜査一課に配属された日のこと。  辞令を受け取り喧騒としている捜査一課を訪れると、課長が年配の刑事を呼んだ。それが一課で一番の古株という岩本辰五郎刑事だった。  来年には定年を迎える岩本さんだが、現場第一主義を信条とし、昇級試験も受けずに定年間近の今でもただの刑事でいる。それを周囲では変わり者と言う人もいるが、一見すると穏和で小柄なおじさんでも、若い頃は警視庁で検挙率ナンバーワンのエースだったらしい。地道な聞き込みと決してあきらめない執念で証拠をかき集め、相手を自供に追い込むところから〝落としの辰五郎〟という通り名が付いたそうだ。  そんな話を聞かされて驚く私に「今じゃすっかり〝お年の辰五郎〟だがな。はっはっは」と、自虐ネタにしてしまっている。  そしてこの岩本さんこそが、私の麻宮妃呂という名前を見るや否や、最初と最後の一文字から〝麻呂〟と呼び始めた張本人なのだ。その呼び名はあっという間に警視庁の一般職員にまで浸透し、それを聞いた姉までもが〝マロちゃん〟と呼ぶ始末となった―― 「――じゃあ津田、そろそろいいか?」 「おう、構わないが覚悟はしとけよ」  雑談を終えた二人が、この瞬間からベテランの顔付きに変わった。エレベーターに乗り込むと、すでに現場を見てきたという津田さんが状況を簡単に説明をしてくれた。 「仏さんは、このマンションの77階で一人暮らしをしている追谷浩介、48歳と思われる。隣人が異臭に気付いて通報。駆け付けた巡査によって遺体が寝室で発見された。職業は六井商船の役員……って、まぁそれは岩さんが調べることだったな。今のところ死因は不明だが、おそらく死後10日ぐらいは経っている」 「六井商船?」  思わず私の声が裏返ってしまった。 「ああ。聞いたことぐらいはあるだろ? 六葉グループの中核をなす、あの六井商船だ」  心の奥底に封印したはずの傷が疼いた。六井商船。その名は忌まわしき過去の傷だったからだ。 「で?」岩本さんが話しの先を促した。 「以上だ」  あっけなく話を終えた津田さんに、岩本さんも言葉に詰まった。 「い、以上って。おい津田。そもそも殺しなのか?」 「それは検死をしなければ分からんな。損傷が激しいから」  それでも納得がいかないという表情の岩本さんを見て、津田さんは嘆息した。 「まあ、言いたいことは分かる。だが、あとは自分の目で見てくれ。それしか言えんよ」  何かを感じ取ったのか、岩本さんはそれ以上何も聞こうとはしなかった。  エレベーターの中に流れる沈黙。その中で私は、心の奥底に深く沈めた〝それ〟が浮かび上がろうとするのを懸命に抑え込んでいた。  駄目だ、来るな。そのまま沈んでいろ。  しかし、どれだけ抗おうとしても、黒くドロドロとしたそれは、浮上しようと突き上げてくる。まるで沈没船が怨念という力によって引き揚げられるかのように。 「――ロ。おいマロ。どうしたんだ? 何をしている?」  岩本さんの呼びかけで我に返った。 「え?」 「なんだ。まだ寝ぼけているのか? 着いたぞ」  エレベーターのドアが閉まりかけたので、慌てて外へ出た。 「す、すみません。ちょっと考え事を……」  今は仕事に集中しないと。  リゾートホテルを思わせるような調度品が飾られたエレベーターホール。  だが、微かに異臭が漂っている。津田さんが言っていた言葉を思い出す。死後10日前後ということは、それなりの覚悟が必要だ。ため息をついて二人の後に続いた。  マンションなのに戸建住宅のような門扉が並ぶ廊下。関接照明で照らされ落ち着いた雰囲気の中を黙って進む。  するとその先に制服姿の警察官が立ってた。規制線も敷かれている。あそこが現場だ。  軽く敬礼をしてから中へと入る。が、一歩足を踏み入れた途端、鼻を突く異臭に思わず足を止めてしまった。やはり腐敗がかなり進行しているようだ。  これまでにも死後数日が経過したであろう現場に立ち会った事ならある。孤独死や自殺の現場では決して珍しくもないことだった。だが、そんな状態の遺体に慣れるということはなかった。  覚悟を決めて一歩を踏み込み、ふたりの後を奥へと進む。 「ご遺体は何処で、んぷっ……」  リビングに入った途端、一気に吐き気がこみ上げてきた。想像を越える腐乱臭。あわてて鼻と口をハンカチで押さる。岩本さんでさえハンカチを当てながら顔をしかめていた。 「仏は隣の寝室だ。まだ作業中だが、見るだけなら構わない。ただし、さっきも言ったが覚悟はしておけよ」  リビングには通報で駆けつけたと思われる若い制服姿の警官がいた。遺体を発見した第一発見者の巡査だろう。顔面蒼白で涙目の彼もまたハンカチで鼻と口を押さえながら、リビングの窓を全て開け放っていたところだった。  リビングから寝室へと続く観音開きの大きなドアは開かれており、強烈な腐乱臭はハンカチ越しでも嗅覚を麻痺させるほどだ。  そっと寝室を覗き込む。  20畳程の広さがある寝室。高い天井と南側が全面ガラス張りという造り。それは中央に置かれたキングサイズの高級ベッドに横になりながら、夜景や夜空を眺めるためのものなのだろう。しかし今、その特等席で横たわっている人物は、とても景色を楽しんでいるとは思えない。  全裸で横たわっているその体は赤紫色に変色しており、腹部には特大のバルーンを抱えている。その皮膚は限界まで張られ、今にも破裂しそうだった。さらによく見ると、頭部の表皮が一部爛れ落ち、頭蓋骨が剥き出しになっている。また、そこにあったであろう眼球は、中から膨張して練り出された紫色の肉塊に押し出され、枕の横に落ちていた。  さらに、体の表面全体からは紫色の半透明な液体が滲み出ており、シーツの色を変えている。しかもその液体には無数の蛆が泳いでいた。  そこでふと、あることに気付いた。これだけの腐乱死体なのに、蛆虫がたかっているだけで蝿が一匹も飛んでいないのだ。隣のリビングで窓を開けたぐらいでは、全ての蝿を外へ追い出すなんて出来ない。これまでにも何度となく格闘を余儀なくされたあの五月蠅いハエ。それがいないのは、どう考えてもおかしい。  岩本さんは津田さんと何かを話している。私は作業の邪魔にならないよう部屋の隅から寝室全体を見ることにした。  白を基調とした広い空間で数人の鑑識官が、遺体の写真を撮ったり蛆虫を採集したりと黙々と作業をしている。  天井に目を向けるとシャンデリア風の照明があった。見る角度によってその一粒一粒が輝きと色を変える様は、こんな現場でなければ思わず心を奪われてしまっただろう。壁にかけられた大きな柱時計の振り子は、主の死後も静かに時を刻み続けている。その横にはマントルピースがあり、部屋全体が高級リゾートホテルのように優雅で落ち着いた雰囲気だった。  しかし、視線がマントルピースの上に向いたとき。心臓が止まりそうになるぐらいの衝撃を受けた。  それと同時に込み上げてきた黒い衝動。それは黒く巨大な津波のようで、なす術もなく私はその濁流に押し流されてしまった。 「なっ、何をしているんですか!」  若い鑑識官の怒鳴り声で我に返ると、みんなの視線が私に集まっていることに気付いた。  何だ? という表情で振り向いた岩本さんも、愕然とした表情になる。 「バカ野郎っ! マロ、何やってんだ!」 「え? ……あっ」  そこで初めて自分の大失態に気付き、手にしていたそれを慌てて元の場所に戻す。  まだ鑑識作業が続いている現場で、そこに置いてあった物を許可なく素手で触れてしまっていたのだ。 「おいおい、岩さん。しっかり教育しといてくれよ」  津田さんは私ではなく岩本さんに言った。 「すまなかった」と言って頭を下げた岩本さんは、私の手を取ると力強く引っ張るようにして寝室を出た。 「お前は馬鹿か。現場を荒らす刑事がどこにいる!」  手を止めた鑑識官たちも、こっちの様子を伺っている。だが私の頭の中は白く靄がかかっているようで、どこか他人事のように思われた。 「す、すみませんでした」  何度も頭を下げ謝る。 「申し訳ありません」 「自分が何をやったのか、わかっているのか! 鑑識の作業が終わっていないのに、しかも素手で。お前はアホか!」  そこへ津田さんが歩み寄ってきた。 「まぁマロちゃんの触ったあの模型。あれはもう指紋の採集が済んでいた。だが、まだ殺人と決まった訳じゃないとは言え、俺たちの仕事を増やしてもらっては困る。今後は気を付けてくれよ」  それだけ言うと、他の鑑識官に向かって「手を動かせ」と檄を飛ばす。  津田さんにも頭を下げる。本当に私は何をやっているんだか……。 「とにかく今度こんなことしたら、別の部署に異動だ。いいなっ!」 「……はい」  リビングの隅っこに立ったまま、再びマントルピースの上に視線を送った。  あの模型。あれは大型豪華客船『パシフィック・エル・ドラド号』だ。  忌まわしき惨劇の舞台。今でも太平洋のどこか海底深くに沈んでいる黄金郷。  心の中で再びあの闇が浮上してきた。後悔、悲嘆、懺悔。そんな負の感情を纏ったドス黒い闇が、やがて大型客船の形を成していく。 「まだ時間かかりそうだから、取り合えず聞き込みだ。行くぞ」  その言葉で思考が強制的に中断され、現実に引き戻された。 「あっ、はい」  仕事に集中しないと。自分にそう言い聞かせ足早に玄関へと向かった、そのときだった。 〝パンッ〟という破裂音に続いて「うわっ!」っという複数の叫び声が聞こえた。  振り向くと、鑑識の人たちが寝室から慌てて飛び出してきた。 「ど、どうしました?」  寝室に駆け寄り中を覗くと、先程以上の強烈な腐敗臭とともに凄惨な光景が広がっていた。  あの腐乱遺体が抱えていた特大バルーンが破裂したのだ。腹部に巨大なザクロ状の花を咲かせ、周囲に肉片をまき散らしている。  ボトッ。  目の前で何かが天井から落ちてきた。それは天井にまで飛び散った肉片だった。  しかも飛び散った肉片に混じって大量の蛆も一緒に飛び散っている。当然ながら、寝室にいた津田さんも運悪く被害を被ってしまっていた。
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