第1章 その1

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第1章 その1

 煌々と光を放つ月夜の大海原。  一隻の白い大型客船が航行していた。  甲板のプールサイドには、色鮮やかなパラソルやビーチチェアが花を咲かせているが、明かりひとつ灯されていないその白鯨は、不気味なまでに静まり返っている。  そんな甲板を、一人の男が覚束ない足取りで彷徨っていた。男の名は木根浩二。三十代後半の遊び人といった感じだが、その目は生気を失い虚を見つめている。  しかし突然、木根は意識を取り戻したかのようにハッとして目を見開くと、驚いた様子で辺りを見渡す。 「な、なんだ? ど、どこだ。ここは……」  誰もいない甲板の上。その表情が徐々に不安へと変わっていく。  しかしその視線が、船内への入り口と思われるドアを捉えた。  木根は慌ててそのドアへと駆け寄りノブに手をかけた、そのとき。  背後から若い女の声で呼び止められた。 「ようこそ、私のナイトメア・クルーズへ」  ビクッとして手を引っ込めた木根が振り向く。そこには、お腹の前で両手を丁寧に重ねて畏まった一人の女性がいた。年齢は二十代前半ぐらいだろう。  しかし、その格好はあまりにも場違いとしか言いようがなかった。  紫色のイブニングドレスにツバ広のドレスハット。まるでパーティー会場から抜け出してきたような格好だったからだ。ウェーブのかかったブロンドのロングヘアーが月明かりに照らされ、妖艶な輝きを放っている。  女は紅色のハイヒールを鳴らして木根に歩み寄った。 「私は船長の鈴原彩音と申します。今宵も心ゆくまで当クルーズをお楽しみ下さい」  そう言って屈体する。  はじめこそ呆気にとられた木根だったが、すぐに平静を装う。 「そんな格好で船長だと? な、何の冗談だ。それより、ここはどこだ? クルーズ船になんか乗った覚えはないぞ」  すると鈴原彩音と名乗った女は、クスッと口許を緩めて微笑みを返した。 「木根浩二様、旅は始まったばかりですよ。木根様にとってすばらしい旅になるよう、心よりおもてなしをさせていただきますので、どうぞご堪能下さいませ」 「だから、船になんて乗った覚えはないって言っただろ! さっさと――」  詰め寄ろうとした木根に突風が吹き付けた。咄嗟に腕で顔を防ぎ半歩後退する。  その突風がぴたりと止んだ。ゆっくりと腕を下ろした木根は愕然とする。 「なっ」  さっきまでとは全く異なる光景。そこは何もない真っ暗な場所だったからだ。もちろんあの女の姿などどこにもいない。  理解が追いつかず困惑の表情を浮かべる。しかし足元に視線を落とした瞬間、息を飲み強張った。 「ひゃっ」  そこでようやく自分の居場所を理解したようだ。そこが超高層ビルの屋上だということを。しかもあと数センチ踏み出していたら、足元の闇へと引きずり込まれてしまうような縁の上に立っていた。  一気に竦み上がった木根は、ふらつく身体を辛うじて居留まらせると、背後のフェンスにしがみつき、その場にずるずると力なく尻をついた。 「な、なんだよ……何が、ど、どうなってんだ?」  怯えた目でフェンスの内側に向かい叫ぶ。 「だ、誰かー。助けてくれー」  しかしそこにはビルの巨大な空調設備が立ち並ぶだけで、人の気配など全くない。  視線をフェンス沿いに向けるが、内側に入れそうな場所など見当たらなかった。上を見ると高さは二メートルぐらいある。視線を目の高さに戻して、フェンスの造りをよく見た。足先が辛うじて入る程度の金網で出来ている。  生唾を飲み込み覚悟を決めた表情になる。そしてフェンスにしがみつきながら立ち上がった。そこへまた突風が吹く。 「ひぃ……」  震える体でフェンスにしがみ付く。  そして風が止むとゆっくり手を伸ばし、ぎこちない動きで登り始めた。その途中、何度か足を踏み外す度に情けない声を上げる。それでも少しずつ登ってゆく。  ようやくフェンスを乗り越え内側に入ると、仰向けになってコンクリートの上に寝ころんだ。 「た、助かった……はぁ……」  安心した表情を浮かべたが、首だけ上げて辺りを見始める。しかし先ほど同様、そこには人の気配などまったくない。  いつまでもこんなところで寝ころんでいる訳にはいかない。そう思ったのか、木根は体を起こして立ち上がろうとした、そのとき。 「うっ!」  突然その場で直立不動になった。 「ひっ! お、おい? なんだ?」  それは本人の意図した動きでないことは明らかだった。まるで機械仕掛けの人形か操り人形のように、背筋をピンと伸ばして起立している。  そしてフェンスに向かって歩み寄ると、手をかけて登り始めた。 「な、何してんだ。止めろ、俺!」  そんな言葉とは裏腹に、ぎこちないながらも確実にフェンスをよじ登ると、再び元の場所に戻ってしまった。 「ひぃ……。や、止め、やめてくれ!」  縁の上で直立不動になった木根の引きつった顔には、大量の脂汗が滲み出ている。そして血走った目で足元に広がる闇を凝視する。顔を背けたくても、それさえも許されない力が働いているようで、みるみる顔が青ざめていく。  空気が漏れるような音が咽喉から発せられる。もう声すら出せないようだ。  そして右足が一歩、闇の中へ踏み出そうとする。 「よ、よへ。ひゃ……止め……ろわっ!」  必死の抵抗もむなしく、木根は最後の一歩を踏み出してしまった。
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