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息を切らしてマンションの前に辿り着くと、二人の消防士が暴れる女性を取り押さえている。嫌な予感がする。聞きたくない、と思う。しかし彼女の叫び声は俺の耳に届く。
「む、息子があああああ! 息子がまだ中にいいいいい! は、離せ! 離せえええええ!」
「奥さんダメです! は、はしご車で助け出しますから」消防士の一人が彼女を落ち着かせているが、彼女は殴り、唾を吐き、消防士たちから必死に逃れようとしている。
携帯が震え、俺は夜桜からかもしれないと思ってスクリーンを見るが、ヴィクセンがライブ配信を始めるというユーチューブの通知だった。
「こんな時に」と悪態をつく。「って、夜桜はまだ俺の番号知らないんだった」
また現場の方を向くと、隊員を二人乗せたはしご車のカゴが上昇している。カゴは上階のベランダ前で停止し、消防士が建物に乗り込もうとする。しかしそれと同時に割れた窓から炎が吹き出す。無理だ、と俺は思う。たとえ防火服を着ていても中に入れないほどマンションは燃え上がっている。残った子供を救い出すのは無理だ。
「あっ、あの女子高生は? な、なにしてるんだっ!」
狐の面をつけ、俺の高校の制服を着た女子がはしごを登っている。
「――まさか、あいつ」と俺は呟く。
ヴィクセン――いや、夜桜――いや、両方。二人が同一人物だということが衝撃的すぎてしっくりこない。確かにヴィクセンが男だという決定的な証拠はなかった。パルクールのランナーは男ばかりなのでヴィクセンもそうだと思っていただけだ。しかしまさか同じ学年の夜桜がヴィクセンだったんだなんて。
素早くはしごをカゴまで登りつめた夜桜は唖然とする消防士たちの間を通り抜け、火炎に包まれたマンションに飛び込む。
俺は慌ててヴィクセンのライブ配信を開く。炎が荒れ狂う部屋の中をアクション・カムが走る。夜桜は「やっほー、助けにきたよー」と砕けた声を上げながらドアを蹴り開け子供を探す。しかし夜桜が乗り込んだマンションの一室に子供の姿はどこにもない。
「おい、あの女子高生ユーチューブで中継してるぞ! ヴィクセンってチャンネルだ」と野次馬たちの間から声が上がる。
玄関のドアを開け、夜桜は廊下に出る。瞬間、火柱が彼女の隣に上がる。アクション・カムは一回転する。夜桜はとっさに身を翻して火炎を避けたのだ。恐ろしい反射神経だ。すぐに夜桜は立ち上がり、廊下を突き抜け、角を曲がる。
そして――
五歳ほどの少年が遠くでぐったりとしている。しかし、夜桜と彼の間の床は燃え尽きてしまっている。五メートル、いや、七メートルぐらいはある穴が二人を隔てる。しかも、少年の反対側の床も階下に落ちてしまっている。
「む、無理だ……も、戻ってこい」
夜桜はスピードを落とさず廊下の狭間に走り込む。俺は手に汗を握る。穴の間一髪前で夜桜は飛躍し、壁を垂直に数回蹴り、少年が倒れた場所に転がり着地する。その勢いを保ったまま夜桜は少年を抱き込む。火の粉が弾ける音がして二人を支える床も落ちる。夜桜はその一瞬の内に体制を直し、階下のフロアに飛び移る。
「嘘だろ」
少年を抱きかかえ立ち上がる夜桜。廊下の終わりに取りつけられた窓がカメラに映る。ためらうことなく夜桜は窓目掛けて走り出す。煙幕が行く手を阻む。だが夜桜は気にせず煙幕の中に飛び込み、窓ガラスを破る。煌めくガラスの破片と一緒に夜桜は落下する。
俺だけではなく、現場に居合わせた全員が一瞬息を止めたような気がする。
次の瞬間、夜桜はガラス張りの天井に衝突する。そのガラスも突き抜け、夜桜は下に広がるプールに落ち、水に飲み込まれる。アクション・カムのレンズは小さな泡で覆われる。
「し、死んでないよな」と俺が呟くと、画像が激しく揺れ、夜桜は頭を水面から突き出す。
プールの縁まで泳ぎ、夜桜は少年を引き上げる。アクション・カムが不自然に横に向けられる。夜桜が少年の胸に耳を押し当てているのだ。
「ふう、ちゃんと生きてますよー。では私はこれで。次回をお楽しみに」
――プツン、とライブ中継が遮断される。
しばらくの間、現場の人々はみな無言で立ち尽くしていた。
「……や、やったのか」とやがて一人が言い、もう一人が「や、やったぜ」と言う。
まるでそれが合図だったかのように拍手が沸き起こる。少年の母親はおいおいと泣き始め、さっきまで彼女を押さえつけていた消防士たちは「よかった、よかった」と手を合わせる。
「ヴィクセンやりました! ヴィクセン、見事少年を燃えるマンションから救い出しました」いつの間にか現れたニュース・キャスターがテレビ・カメラに向かって報告している。「神業です! 奇跡です! パルクールで知られるユーチューバー、ヴィクセン、消防隊員が入れなかった火事現場に乗り込み、無事少年を救出しました!」
俺は道端に座り込み、未だに心拍数が二百ぐらいあってもおかしくない左胸を押さえた。
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