死ねない彼女は消防士

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 次の日、夜桜は学校には来なかった。それが正しかったと思う。学校の前はマスコミで殺到していたから。  俺はその日も塾を休み、真っ直ぐ住むマンションに戻った。エントランスで夜桜の表札を探す。  呼び鈴を押すと、「どうせ会長でしょ? かしこまったことしないで上がってきていいよ」と夜桜が出て、俺が答えられる前にインターホンを切ってしまう。  昨日始めて話した男子をこう容易く家に入れてもいいのか、とは思ったが、文句は言うまい。正直、夜桜の部屋を見れるかも、と十分ほどマンションの前でガッツポーズをしていた。 「遅かったね」と夕方なのに寝間着姿の夜桜がドアを開ける。「まさか女子の部屋を見れるかもって欲情しちゃってたの?」 「……悪いかよ」と返すと、夜桜は目を丸くして笑う。  夜桜の一角は間取りは俺が両親と住む部屋と同じでも、ガランとしていた。いや、ガランを通り越して家具が一切ない。居間の中央にシーツもついていないマットレスが置かれ、その脇に散らばるノートパソコンやお菓子の袋。マットレスの上には天井から首を吊るためのようなロープが垂れ下がっている。部屋の唯一のデコレーションは夜桜のひねくれた性格をよく表しているな、と思う。 「両親と一緒に住んでいるんじゃなかったのかよ?」 「パパは国境なき医師団でシリア、ママは人種差別を専門にした弁護士をアメリカでやってる」 「そうか。まったく、立派なのか立派じゃないのかわからないな」  夜桜は両肩を押し上げる。「仕送りは毎月もらっているよ。で、会長、あたしにまたなんのよう?」  俺は唾を飲み込み、神妙な顔で夜桜を見る。 「まー、多分昨日のことだと――」彼女はショートヘアの間に指を通している。 「夜桜純恋さん」昨日練習したように頭を下げる。しかし動作がやはりブリキのロボットのようにカクカクしてしまう。「俺と付き合ってください」 「へっ」夜桜は文字通り飛び上がる。  顔を上げると彼女は耳まで真っ赤になっている。初めて毒舌と皮肉の下に隠れた彼女の素顔を見ることができたような気がする。 「最初見た時惚れたっ!」夜桜が赤面して自信がついたためか、俺は馬鹿みたいに喋り捲る。「ああ、シャワーの一件のことだよ。あれで惚れた。悪いかよ? でも実はヴィクセンには前から憧れていた。それで、夜桜が少年を救出するのを見て、運命の人だと思った。夜桜と初めて話してから一日も経っていないのにそう思った。恋は盲目ってやつかもしれん。だが俺にはそんなことは関係ない。夜桜――」俺の声は早くも掠れてしまっている。「おまえのことがたまらなく好きだ。昨日は一睡もできなかった。付き合ってくれ」  夜桜の顔は湯気が出てきそうなほど赤い。でも多分俺も同じだ。 「……えーっと、あの、コーヒーあるかな? 昨日は寝ていないから立っているのもやっとなんだ」照れてしまい、俺はなぜか話題を変えようとする。 「おーきゃくさまにコーヒー、コーヒー」と夜桜は棒読みに呟き、部屋の隅に投げ出されたガスコンロに薬缶を置く。  あれ? 彼女も随分参っちゃってる。ちょっと強気になる。てっきり「へー、リスカが会長の性癖だったんですかー、変態ですねえ」とか言われると思っていた。 「おーきゃくさまのコーヒー、ミルクと砂糖どーしますー?」 「え、えーっと、さ、砂糖でいいよ」  向かい合って床に正座する。夜桜が淹れたコーヒーを飲んでみるが、かなり塩っぱいので、マグをまた下ろす。そうやって、俺たちは長い間、目を合わせないようにして座っていた。 「実は」といつもの口調が回復した夜桜が切り出す。「あたし、もうボーイ・フレンドがいるんです」  目の前から全ての色が消滅する。俺はパッタリと横に倒れ、魂が抜かれてしまったかのように自分の手を見つめる。夜桜にはすでにボーイ・フレンドがいる。どうして俺はその可能性を考慮しなかったのだろうか? 夜桜はボッチの雰囲気を漂わせているが、顔は可愛いし、会話が弾む楽しい話し相手だ。こんな女子にボーイ・フレンドがいないわけがない―― 「あっ、う、嘘! 今の嘘。 じょ、冗談」夜桜は慌てる。 「えっ? じょ、冗談?」 「う、うん。ボーイ・フレンドいない。ご、ごめん、こういうの慣れてなくてどう答えていいかわからなくて、い、いつもの毒舌が最初に出ちゃった」  息を大きく吸い込み俺はまた正座する。「あれが毒舌の範囲に入るのなら、史上最悪の毒舌だと思う」 「ごめん」  夜桜が謝ってから再び沈黙が訪れる。気まずい沈黙だった。採点されるテスト用紙が配られる時のような、落ちてもいいから早く結果を知りたい、という感じの。 「でも会長はあたしに告る前に、あることを知っておいた方がいいと思う」  夜桜は体を床に倒し、マットレスの下を探る。そして黒く光る物体と小さな紙の箱を引き出し、ドンと俺たちの間に置く。 「……えっ」俺は目を見張る。  床に置かれたのはリボルバーと銃弾が入った箱だった。 「これ、まさか本物? じゃないよね」 「本物」  夜桜は済ました顔で弾丸を一発リボルバーに込め、シリンダーを回す。シャーッという音が殺風景のリビングに響く。 「なにする――」  俺が止めることができる前に夜桜は銃口を口に入れる。一瞬の出来事だった。腰を浮かし、夜桜の方向に手を伸ばす。しかし遅すぎる。夜桜の親指がトリガーを引く。  ――カチッ。  夜桜の頭は吹き飛ばされていなかった。偶然弾倉は空。俺はへなへなと腰を下ろす。まさか六分の一の確率で死ぬロシアンルーレットを夜桜が目の前でやってのけるとは。彼女といると、こっちの心臓が先に止まってしまいそうだ。 「よ、夜桜が正気じゃないってのはわかった。そ、それでも――」  夜桜は未だに銃口をくわえている。  ――カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。  続けざまに夜桜は四回トリガーを引く。ぎゃっ、と俺は悲鳴を上げる。 「……大丈夫、あたしは死ねないから」夜桜はリボルバーを口から出し、発射されていない一発をシリンダーから抜き取る。「一発を込めた六連発のリボルバーで五回続けざまに撃った場合、シリンダーに銃弾が残る確率は0.14パーセント以下。もう一回同じことをやってもいいけど、結果は変わらないよ」 「……は、はあ?」 「あたしは死にたいの。死にたくて死にたくてしょうがない。でも死ねない。そのことを会長は知っておいてからあたしに告白した方がいいよ」  俺の喉はからからに干上がっている。「ど、どういうことだ」 「数年前、あたしは死にたくて東京湾に身投げしたんだ。一回はちゃんと死ねたんだと思う。三途の川で渡し船にも乗ったから。でも、渡し守に皮肉を言い過ぎたのか、あいつ、途中で怒っちゃって、反対の方向に漕ぎ出した。次気がつくと、あたしは海岸で海水吐いていた」夜桜は涙を浮かべている。「それからなにをやっても自殺はできなくなった。ビルの屋上で一輪車に乗っても落ちないし、ロシアンルーレットは何回やっても外れだし、最後にシリンダーに残った当たりの弾丸を撃とうとしても指が言うことを聞かない」  話し終わった夜桜の頬は一筋の涙で濡れていた。  覗かれたことより貧乳と言われたことの方を怒り、面倒くさいと言いながらも俺と接してくれて、実はパルクール・ランナーで、燃えるマンションから子供を助け出した夜桜が死ぬことを願っているというのは、俺の固定概念というか、世界観を乱すようで、当初理解するのが難しかった。もしかしたら俺は、自殺志願とは発作的のようなもので、一時(ひととき)の精神の狂いを耐えれば、消えてなくなるものだと幼稚に考えていたのかもしれない。また、鬱病であるのなら、寝たきりにのようになにもできなくなる、という先入観もあった。夜桜のように、取り巻く空気は暗くても、実際は活発な人が自殺したいと思っていることを受け入れるまで長くかかった。 「俺は――」 「会長、一夜考えて、それでもよかったらもう一度告白して。明日は学校に行くから」夜桜は立ち上がり、ベッドの上に吊るされたロープにピョンと飛びつく。「あたしは疲れたから寝る」 「またなにをするつもりなんだ?」  夜桜は輪になったロープに首を入れ、そのまま手を離す。うっ、と喉を絞めつけられた夜桜は呻く。 「この……方が……寝付くの……早いし……悪夢……少ない」  顔が紫に変色した夜桜は気を失い、ズルッと自然にロープから滑り落ち、ベッドに倒れ込む。  俺は夜桜が息をしているかどうか調べてみたが、やれやれ、死ねないというのは本当であるらしい。まだちゃんと呼吸もしていたし、脈も正常だった。だが男子の前でわざと気を失うというのは無謀というか、全く恐怖心がない。俺を信用しているのか、どうなのか、判断しかねる。  掛け布団を探したが、部屋にはなにもないので、俺は自宅から毛布を持ってきて、すやすやと寝息を立てる夜桜にかけてやった。
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