第3章 夏の終わり

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「実は、リーフを続けられることになったんだよ」 「えっ!? 本当ですか?」  マスターは微笑みながらうなずいた。 「この場所でですか?」  またうなずく。身構えていた肩の力が抜けると同時にうれしさが込み上げた。清風さんが戻って来て、リーフもなくならないなんて、こんなにいいことばっかり続いていいのだろうか。 「でもどうして急にそうなったんですか? オーナーの気が変わったとか?」 「その通り」  マスターと清風さんと奥さん、三人でにこやかに顔を合わせる。なんだかわたしだけ蚊帳の外状態だ。 「何があったんですか? 教えてくださいよ」 「実は、土地を買う人が変わったんだ」  マスターは言った。 「どういうことですか?」  いまいちよくわからない。すると突然清風さんが言った。 「あたしがここのオーナーになるの」 「え?」  マスターと奥さんの顔を見る。二人とも黙ってうなずいた。 「オーナーにね、今この土地を買おうとしている人の二倍出すからあたしに売ってって頼んだの。驚いてたわよ。もう手続きも途中まで進んでるし、先に売るって言った人にも悪いしって悩んでたみたいだけど、そんなんで引き下がってたら何にもできないわよね」 「じゃあ、強引に押し通したんですか?」 「なんか言い方に悪意があるわね。交渉よ。交渉」 「でもすごい……。元の値段の二倍なんて。だって元々だって、相場より高い値段がついてたんでしょう? やっぱり雅楽川家ってすごいんですね……」  相場、なんて口にしたものの本当はよくわからないけれど、とにかく“土地は高い”ということだけはわたしにもわかる。 「そりゃあ正直雅楽川家にはけっこう財産があるわよ。でもあたしがそれを自由にできるわけじゃないから」 「じゃあどうやってそんなお金用意したんですか?」 「東京の自分のマンションを売ったの」 「売った? じゃあ帰るとこなくなっちゃうじゃないですか。もしかして、これから尾道の別荘に住むんですか?」 「家なんて一つじゃないもの。売ったマンションは元々あんまり使ってなかったから別にいいのよ。それにここの土地を買ったってたくさんおつりがくるしね」  この人は本当に住む世界が違う。  何はともあれ、おめでたい。悠斗君にも早く知らせたいと思った。 【なんと清風さん戻って来たよ! しばらくいるんだって】というメッセージと、勝手に撮った清風さんの横顔の写真を悠斗君に送る。するとすぐに返信が来た。目がハートになっているパンダのスタンプだった。なんで? 清風さんも笑っていた。  夜、お風呂上りの火照った体に麦茶を流し込む。もうすぐ、今年も冷蔵庫から麦茶は消えるだろう。昼間はまだ暑い日もあるけれど、朝晩はひんやりすることも多くなった。  麦茶のポットを冷蔵庫にしまい、パタンと扉を閉めると同時に、テーブルの上のスマホが鳴った。ラインの着信音だ。 《兄貴がまたしばらくお世話になります》  葵さんからだった。律儀な人だ。 【こちらこそ。また清風さんに会えてうれしいです】 《すっかり仲良しですね。うらやましい》  うらやましいとか、なんかうれしい。これが悠斗君なら、続けて「冗談です」と続くのかもしれない。 【そういえば、お見合い、正式に断ったそうですね】 《正式にっていうか、会ってもいませんから。写真の交換もまだしてなかったようだし。でも母から聞いたんですが、向こうからメッセージが届いたそうなんです》  メッセージ? もしかしたら相手方は会う気満々だったのかもしれない。まあたしかに、雅楽川家の御曹司とのお見合いなら、普通は会ってみようと思うだろう。 【どんなメッセージだったんでしょうね】 《それが、「お好み焼きパーティー、楽しかったです」って》  しばらく文面を見てからピンと来て、思わず息を呑んだ。すぐに葵さんに電話をかける。 (もしもし。どうかしたんですか?) 「あの、清風さんのお見合い相手の人って、何ていう名前の人ですか?」 (僕は名前はわからないなあ。でも、横浜の桜木貿易って会社のお嬢さんだそうです)  横浜の、桜木貿易……。やっぱりそうだ。絶対そうだ。あの桜木加奈さんだ。 「清風さんは、何て言ってるんですか? そのメッセージのこと」 (兄貴にはまだ伝えてないみたいですよ。意味がわからないし、かと言ってこちらから色々聞くのもどうかってことで……。でも先方は全然怒ってる感じじゃなかったみたいなんです。むしろ好意的というか……。それにしても、兄貴とその相手の方には共通の知り合いもいないようですし、だいたい兄貴がお好み焼きパーティーなんて……。先方が、メッセージを送る相手を間違えてるんじゃないかと思ってるんですけどね……)  加奈さんは清風さんとわかって会いに来たというのだろうか。いや、でもそれは考えられない。もし清風さんが尾道にいることを知っていたとしても、あんな出会い方をするのは不可能だ。加奈さんが清風さんの素性を知った途端にたじろいだように見えたのは、清風さんがまさかの自分のお見合い相手だとわかったからだったのかもしれない。あまりに偶然だけれど、神様のいたずらとしか言いようがない。それとも、運命の赤い糸だとでも? (もしもし? 夏井さん?) 「え? あ、すいません」 (とにかく、僕も母に聞いた話なのであんまりよくわからないんですけどね) 「葵さん……」 (はい)  清風さんって、本当は…………。 「いえ、何でもないです」  やっぱりいい。清風さんは清風さんだ。実は律儀で、緑茶が好きで、お酒を飲んだらちょっと饒舌になって、強引で、口が悪くて、そしてやさしい。  そう言えば今度、しまなみ海道を一緒にドライブしようと言っていた。  まあ、つき合ってやってもいい。  海を渡る風は、きっと爽快だ。                           〈了〉
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