一歩

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一歩

 そして今、運転席に座るジェイは、再びそわそわと落ち着かない様子を見せていた。  あの「告白」以来、二人がその話題に触れることはなかった。これまでのように、最低限の仕事上のつきあいのみを保っていた。それに、先日あんな大捕物があったおかげで、それどころではなかったというのもあった。  相変わらず帰るときはジェイがハルを車で送り届けていたが、ほとんど会話を交わすことはなかった。だが、それも今夜が最後だった。ハルの愛車が修理を終え、戻ってくるのだ。それはジェイも知っている。 「着きました」 「…ああ。」 ハルは、考えあぐねていたが、やがて口を開いた。 「ああ…あのときの、お前の物を返したいと思っていたんだが…」 「え?なんです?」 「その…あれだ、血を拭いてくれただろう」 ハルは身振りで示そうとする。 「ああ、あのときのハンカチですね!」 「ああ、それだ。綺麗にしたかったが…駄目だった。血がこびりついてしまって」 「気にしないでください。あなたのために使えたなら本望です」 「すまない。大切な思い出があるとか、誰かからの贈り物とかじゃなかったか?」 「まあ、誰かからの贈り物ではありますけど、誰からか覚えてないくらいですから、問題ないです」 「…そうか。それならよかった。代わりにと思って買ったんだが、全然色が違うから」 ハルはそう言うと、ジャケットの内ポケットから小さな包みを取り出した。 ジェイは信じられない思いでそれを受け取る。今日一日、ずっと胸ポケットに入っていたのだろうか、温かい。 「…これを、俺に?開けてもいいですか?」 「期待するなよ」 包みを開けると、中には新しいハンカチが入っていた。濃いブルーの無地で、しっかりとした厚みのものだ。本当だ、前に持っていた白いペラペラのものとは全然違う。 「それなら汚れても目立たないかと思ってな」 照れ隠しのように鼻をかきながらハルが言う。 ジェイは胸が熱くなるのを感じながら、ハルに向かって言った。 「すごく嬉しいです。これを…あなたが僕のために、僕を思いながら選んでくれたんだと思うと胸が一杯です。他の誰の贈り物よりも嬉しいです」 また、あのきらきらした瞳でハルを見つめる。  ハルはその視線が眩しいかのように下を向き、切り出した。 「ああ…その話なんだが」 「その…お前は、ちょっと勘違いをしているのかもしれない。小学生や中学生のときにあったろう?まだ友情と、恋愛感情の区別がつかない時期に、親友に恋するような状態だ…」 ジェイが口を挟もうとするのを手で制する。 「お前は純粋で思い込みが強いところがあるから、俺への気持ちをそんな風に混同してるのかもしれない。」 「それは違います」 「お前、俺をいくつだと思ってる?」 「年齢は関係ありません」 ハルは少々イラついてくる。 「お前ほどハンサムで若くて、優しい男なら、他にお似合いの相手はいくらでもいるだろう。」 「僕のことをそんな風に思ってくれるなら、あなたが僕と付き合ってください」 「…本気で言ってるのか?」 「僕はいつだって本気です。それはあなたも知っているでしょう」 さっきまでの所在ない様子が嘘のように、また情熱的なジェイに戻っている。それどころかエンジンがかかってしまったようだ。  ハルはお手上げだ、という風に天を仰いでため息をつく。 「……こんな、頭も薄くなってきた老いぼれの、一体どこがいいんだ」 「あなたは、自分が思っているよりもずっと魅力的です。俺にとっては、あなたはショーン・コネリーよりもセクシーです」 呆れたようにジェイを見る。だがもちろん、彼が本気なのは目でわかる。 大きくため息をつきながら言う。 「ああ……こんなとき、何て言ったらいいんだ」 ジェイは、照れながら、諦め半分につぶやいた。 「そうだな。口づけて、ただ『ありがとう』と微笑んでくれたら最高ですね」 言ってから、ふっと自分で笑う。そして、それが叶うことはない現実に気づき、うつむいた。 「もう、行きます」 そう言って顔を上げたとき、ハルの顔が近付いてきた。  彼の唇が、自分のそれにそっと、触れる。彼の髭の、少しだけチクチクする感触。唇の温もり。そして大きな手がジェイの頬を包んでいる。  夢を見ているんだろうか。それを確かめるように、ジェイはハルの唇をついばむように応えた。少しだけ、唇の内側の柔らかく湿った部分に触れる。ハルの唇が、触れた時と同じように、そっと離れる。  幸福感と気持ち良さに圧倒されて、ジェイは目を開けることができない。まだ唇が触れそうな距離に、ハルの吐息を感じる。夢なら醒めないで。ジェイがそっと目を開ける。ハルの漆黒の瞳を見つめる。 「サンキュー。……これでいいか?」  ジェイは無言で何度もうなずく。そして耐え切れずにハルの首に手を回し、キスを交わした。今度はジェイから。興奮を抑えきれず、気ぜわしくキスをしようとする。と、ハルが少し身を引き、もう一度、ゆっくりと口づける。そして、舌を彼のものと絡めた。大きな動きで、丁寧に。はやるジェイの気持ちをなだめるように、ハルの唇と舌の動きは、常にゆっくりと、それでいて艶めかしく彼の口内を愛撫した。  ハル。仕事人間じゃなかったのか?こんなの聞いてない。こんなに、キスが上手いなんて…  あまりの気持ち良さにすっかりせわしなさは消え、ただただ彼の舌の動きに身を任せ、恍惚とする。思わず吐息を漏らすと、ハルの唇が離れた。  荒い呼吸をしながら、潤んだ瞳をハルに向ける。ハルも同じように潤んだ瞳でジェイを見つめ、ささやいた。 「一歩ずつだ(One step at a time.) 。 オーケー?」 「…イエッサー」 声を絞り出す。  ハルは車を降りた。ルーフを二度、叩く。 ジェイは呼吸を整えてから、ハルを見つめてうなずき、車を発進させた。  一歩ずつだって?あれが?はやる胸のうちを抑えながら、ハルは自分に悪態をつく。彼の唇を感じていたら、止まらなくなってしまった。何をやってるんだ俺は。  一歩ずつだって?あれが?ジェイは車の中で、彼の唇の感触と、舌触りを思い出しながら、また興奮してくるのを抑えきれなかった。ああ、明日から彼といつも通りに仕事ができるだろうか。というか、しばらく彼の顔をまともに見られそうにない。 (あれで一歩だったら、次の一歩はどうなるんだ。しかも、今度は俺が耐えられそうにない。) 二人はそれぞれの思いを抱きながら、深くため息をついた。
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