For Brian(フォー・ブライアン)

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 ブライアンが長い夜を終え、見慣れた通りに着く頃には、クリスマス・イブの喧騒はすっかりなりをひそめ、住人たちはそれぞれの住みかで、それぞれの愛する人たちと一緒に過ごしていた。  ささやかながらも華やいでいた商店街は既に新年への準備へと心変わりした様子で、クリスマス仕様に飾り立てた店の照明は勢いをなくし、頭上をアーチの様に施された電飾が、雪を踏みしめた無数の足跡を照らしていた。  その中を、一人歩く。一歩踏み出すごとにキシキシと音がする。サイレンもなし。呼び出しもなし。今夜のこの静けさに、自分は祝福されていると思う。とはいえブライアンは、国民の最大の祝日の一つであるこの日に対して、夢や希望やその他の甘美な幻想は一切抱いていなかった。  いつ頃からなのだろう。毎日新たな「罪人(つみびと)」が現れて、そいつを追いかけ、逃げられ、また捕まえる。それを繰り返すうちに、何も起こらないことがありがたいことだと思うようになったのだろうか。それとも、最初から自分はこんな人間だったのだろうか。今や思い出せないし、知ろうとも思わない。  ただ、今自分が信じているものがあるとすれば、湯気の立つマグカップで冷え切った両手を温め、その香りを肺の奥まで吸い込み、芳醇な味わいの漆黒の液体をひとくちでも口にすることができたら、天にも昇る気持ちになれるということだけだ。  それは叶わぬ願いかと思いつつも、つい足が向いてしまう。すると、道の反対側から、ブライアンが愛してやまない店の中の、カウンターの照明だけがほのかに辺りを照らしているのが見えた。近づいて、窓を覗き込む。暗い店内に、まるで舞台のようにジェフだけが仄明るく浮かび上がっている。思わず、そっと窓をノックする。ジェフはびくっと体を震わせてこちらを振り向いた。ノックの主が誰かわかるとほっとした様子で微笑む。ジェフが早歩きでカフェのドアの鍵を開けるのを待った。 「ブライアン!なぜこんな時間に?!」 「まったく同じセリフを君に返すよ」 二人は笑い合う。ジェフがドアを大きく開けて、ブライアンを中へと促す。 「いいのか?」 「VIPを中に入れないわけにはいかないよ。でも内緒だよ」 ブライアンは手ぶりで口を閉じて今夜の救世主に忠誠を示した。  店の中は暖かく、賑わいの名残がそこかしこに漂っていた。ブライアンはコートを脱いでカウンターに並んでいるスツールの一つにかけ、自分はその隣に腰かけた。 「イブの夜に仕事なんて、君の“いい人”(” sweetheart ”)が待ちくたびれてるんじゃないか?店長さん」ブライアンがいたずらっぽい目で茶化す。ジェフは目の前のエスプレッソ・マシンに耳をそばだてる真似をしながらウインクする。 「僕の“いい人”は、『イブの夜にすみずみまで綺麗にしてもらって嬉しい』って言ってるよ」そしてマシンの掃除を再開する。 「いつものでいい?」 「いいのか?」 「ああ。今夜は僕がドリップで淹れるよ。豆から挽いてね」 「これぞクリスマスの思し召しだな。最高のプレゼントだ」  ジェフは手際よく、ブライアンのためにプレゼントをこしらえる。豆を挽き始めると、香しい匂いがカウンターに充満する。ブライアンは、それを心ゆくまで吸い込む。 「あなたも、今まで仕事?」 「まあな」両手で顔を覆うようにして、上から下にこすりながら答える。目にはクマができて、心なしか落ちくぼんでいる。いつもは綺麗に剃られた肌にうっすらと髭が生え始め、口元から顎にかけて黒っぽくなっている。 「きつい日だったんだね?(Tough day, huh?)」 「どうかな。いつも通りのような気もするし、そうでない気もする」 「話したい?」 「やめておこう。君のコーヒーを台無しにしたくない」  ブライアンはいつもこうだった。こんな風に、疲れ切った一日でも、多くを語ろうとしない。ただ店に来て、いつものコーヒーを飲み、仕事とは関係ない話を少しして、帰っていく。  挽きたての豆をドリッパーにセットし、沸かした湯を細く注ぐと、先ほどとはまた違った香りが鼻腔を優しく刺激する。ブライアンはほとんど恍惚とした表情で目をつぶり、その香りを堪能しているようだ。長い睫毛が深い影を落としている。顔色もいいとは言えなかったが、その儚げな様子が、はっきり言ってとてもセクシーだ。ジェフはマグカップにコーヒーが満たされていくのを待ちながら、こっそりとブライアンの表情を観察する。  「お待ちどお様」ブライアンの前にマグをそっと置く。 「このためならいくらでも待つよ」両手で大事そうにマグを持ち上げ、ブライアンがそっと口をつける。一口目を飲み下すと、また目を閉じ、ため息をつく。 「ああ。君がこの店をここに開いてくれて、俺の刑事生命は確実に伸びたよ」 「よかった」にっこりと微笑む。  外には誰もおらず、温かく、薄暗いカフェには自分たちのいる場所だけ灯りがついている。  ジェフは今夜、二人の間の沈黙も心地よく感じていた。そんな自分が嬉しかった。ブライアンの幸せそうな顔を時々盗み見ながら、作業を続ける。だが突然、自分が勝手に決めた「賭け」を思い出して、落ち着かなくなる。彼が今日、現れたなら。どうしよう。これくらいなら言ってもいいだろうか。 「あの…」 「なんだ?」 「…あなたにちょっとしたお願いがあるんだ。」ジェフはジーンズの後ろポケットから財布を引き抜き、中から金色の小さなコインのようなものを取り出してブライアンの前に置いた。それは、AA(アルコール中毒更生会)の禁酒メダルだった。中央には大きく「10」の数字が光っている。  ジェフが面映ゆげに言う。「胸を張って言うことじゃないかもしれないけど…やっとここまでこれたんだ。今日で十年目。誰にも言ったことはなかったけど、できたらあなたと一緒に…祝いたくて。厚かましいかな」 「いや。そんなことはない」ブライアンはメダルをしげしげと眺めて、真顔で答えた。そして顔をあげて、ジェフを見つめた。「おめでとう。頑張ったな」ジェフの心臓がとくん、と跳ねる。ブライアンは少し間をおいて、話し始めた。  「俺もこの仕事に就いたばかりの頃は、悪党たちをしょっぴいて、裁きを受けさせる、なんて息巻いてた―だが、その思いが報われる感覚っていうのがなかなか得られないんだよ。その代わり、自分の中の何かが確実にすり減っていく。きっと、たぶん、希望、とか、熱意、とか正義とかなんとか、そんな類のものが。そのうち、闘わなきゃならない相手は自分なんだって嫌でも気づいてくる。これがなかなかの強敵でね。ここ数年は、負け続きだった。  そんなときに君が現れた。逮捕した人間と再会することはしょっちゅうあるけど、残念ながら良い出会いじゃないことが圧倒的に多い。だから、君にまた会えただけじゃなくて、こんなに立派になった姿を見られたことが本当に嬉しいよ。だからこれは」マグを少し上に掲げる。「君のメダルと同じで、俺にとってはすごく大きな意味を持つんだ。君が思っている以上にね」  ジェフは、体の中が温かさで満たされるのを感じた。それと、彼への愛情でも。 「しゃべりすぎた。イブのせいかな」 ブライアンがふっとマグに向って笑みを漏らし、口をつける。 そうだ、イブのせいだ。  「そのコーヒー。名前を知ってる?」 「あ?ああ。確か“4B”だよな。」 「そう。どういう意味かも知ってる?」 「いいや」 「表向きは、“4 Beans”、4種類の豆を使ったオリジナルブレンド、ってことになってる」 “表向きは”という謎めいた言葉に刑事の性が刺激されたのか、ブライアンが笑みを浮かべたまま、しかし眼には少し鋭さが宿った顔つきでわずかに身を乗り出した。「ほう」 少し息が苦しくなってくる。 「でも、これはあなたのために僕が作った。“For Brian”なんだ。」 ブライアンの目が見開かれる。 「出会ったとき、ボロボロだった自分を唯一人間扱いしてくれたのがあなただった。更生施設を紹介してくれたり、いろいろサポートしてくれて」うまく言葉が出てこない。緊張を紛らわせるために無理に笑いを作る。   「今日は僕の宝物を披露する会みたいになってるけど」再び財布から、ぼろぼろになった紙切れを取り出し、ブライアンに見せる。まだ新米刑事だったころの彼の名刺だった。 「ちょっと恥ずかしいけど、これもずっと持ってる。僕にとってこの小さな紙切れは、チケットとかパスポートみたいなものなんだ。これを持つことで、まともな世界に入り直せる。もう元いたところには戻りたくないけどね。だから、これは僕のお守りなんだ」ジェフを見つめるブライアンの表情は、苦しそうでもあり、嬉しそうでもあった。  「それでも何度か挫折したけど…あることがあって死にかけたときに、『もう終わりにしなきゃ』って思ったんだ。そう、十年前の今日。そこからは死に物狂いだった。必死で働いて、お金を貯めて…コーヒーショップをやろうと思い立ったのも、あなたがきっかけなんだよ」驚いたような表情のブライアンに笑いかける。 「『このへんには美味いコーヒーを飲ませる店がない』っていつもぼやいていたでしょ?」 「ああ。それは間違いない」 「僕があの生活から這い出すきっかけを与えてくれた、あなたに恩返しをしたくて…いつかこの街に、自分の店を開くって決めた。有名店で働いたり、豆や焙煎の勉強をしたり、大変だったけど、楽しかったよ。何より、あなたの喜ぶ顔が見たかったし」顔が赤くなっているのを感じてうつむく。ブライアンは感動でしばらく声が出ないといった調子だったが、やがてジェフの顔を見て言った。  「ワオ。君には驚かされてばかりだな。俺のことをいささか買いかぶり過ぎな気がするが…でも、俺も君の頑張りに見合った人間にならなきゃいけないな。こんなことを言えた義理じゃないかもしれないが、君を誇りに思うよ」  今度は更に大きく心臓が跳ねた。鼓動が耳まで響いている。 「…もっと、あなたを驚かせてしまうかもしれないけど。」うまく息継ぎができない。「さっき、イブの日に一人で仕事なんて、って言ってたけれど、僕は今夜、あえてここにいた。一人で。もし、もし、今夜あなたに会えたら、僕の気持ちを伝えようって。『あなたが好きだ』って」突然の告白に口が開いたままのブライアンの目を見つめる。 「最初は確かに、あなたへの憧れみたいなものだったかもしれない。僕にとってあなたは、今も昔もヒーローだからね。だけど、再会して、毎日のように顔を合わせて…いつの間にか、あなたに会えるのを心待ちにしてる自分に気づいた。憧れだけじゃないっていう思いが日に日に強くなっていった。最初は会えるだけで幸せだったのに、だんだん苦しくなってきた。  でもこの気持ちをあなたに知られてしまったら、もう元に戻れないかもしれない、と思ったら怖くて、ずっと言えなかった。そして…あなたは今日、ここに来た。自分の中で賭けをしてたんだ。もし現れなかったら、この思いは一生自分の中にしまっておく。でも、もし今日二人きりで会うことができたら…」ブライアンの目に明らかな戸惑いの色を見て、胸が引き裂かれたように苦しくなる。慌てて取り繕い、その痛みを和らげようと虚しくもがく。 「ごめんよ。その、何かを期待してというわけではないんだ。あなたにその気がないことは分かってる。ごめん、独りよがりでこんなこと言って」いつの間にか、ブライアンの前のカウンターをきつくつかんでいた。「だからお願いだ。またコーヒーを飲みに来て。僕に会うのが気まずかったら、僕は店の奥に引っ込んでるから。でないと、これは、あなたのためだけに作ったこのコーヒーが…」その後が続かない。 「ああ、それはもちろんだ。でないと俺が困る」先を待たずにブライアンが答えてくれて少しほっとする。 「だが…」ブライアンが鼻の頭をかく。「すまない。俺は…」 「いいんだ、謝らないで。僕の方こそ、ごめんよ、気まずい思いをさせて。」  先ほどは心地いいと思っていた沈黙が、今や耐え難いものになりつつあった。ジェフは今夜の自分の決断を、後悔し始めていた。  ふうっと声に出して息を吐き、カウンターを叩いて気を取り直す。「じゃあ、僕は片付けの仕上げに戻るとするよ。立ち寄ってくれてありがとう」そう言って精一杯の笑顔を作る。 ブライアンは、力ない笑みを返す。申し訳なさそうだ。ああ、僕のコーヒーを飲んでいたときはあんなに満足気だったのに。 「…じゃあ、俺は行くよ」 「うん」 「またな」 「またね」 ブライアンはゆったりとした足取りで戸口へと向かう。ドアノブに手をかけたが、振り向いて言った。「…メリークリスマス」 ジェフは胸の痛みを覚えながらも、微笑み返す。「メリークリスマス」  ドアが閉まり、ドアベルがかすかな音を響かせた。ブライアンの姿を目で追いたくてたまらなかったが、勇気を振り絞って背を向けた。そうしないと、涙がこぼれ落ちそうだった。カウンターの上に残された、ブライアンのマグカップを片付けようと手に取る。まだ、温かい。ブライアンの手の温もりを感じていたくて、マグを両手で抱える。  突然、窓をノックする音に飛びあがる。振り向くと、湯気で曇った窓ガラスを誰かが手で拭っている。よく目を凝らすと、今去ったはずのブライアンがこちらを覗いている。 「ブライアン?」 まだ胸の鼓動が収まらない。ブライアンが、指でこちらに来い、という合図をしている。何だか足が地面から浮いているような心地で、恐る恐る外に出る。  シャツにエプロン姿のまま外に出たので、冷気が身に染みる。 「何か忘れ物?どうしたの?」 質問には答えず、ブライアンが顎でついてこい、と促す。寒さに背を丸め、手をこすり合わせながら、混乱したまま後をついていく。と、突然ブライアンが立ち止まり、ジェフは危うくブライアンの背中に鼻を打ち付けそうになる。 「ど、どうしたの一体?」 ブライアンはゆっくりとジェフに向き直り、自信なげに微笑んだ。 「上を見て」  頭上を指さす。ジェフがいぶかし気に見上げると、ちょうど自分たちの上に、電灯にくくり付けられたやどり木(mistletoe)が見えた。そして、ブライアンが今からしようとしていることを想像して、顔を赤らめる。 「ブライアン、―」 ブライアンはしぃっ、という音でジェフの口をつぐませた。そして彼の頬をそっと両手で包んだ。ジェフの吐く息が増えていき、二人の間に白いもやがかかる。ブライアンの唇が、そっとジェフの唇に触れる。  それは、素っ気ない、お情けのキスではなかった。温かくて、優しさに満ちたキスだった。触れたときと同じくらいそっと離れる。  ジェフは耐え切れず、もう一度ブライアンを引き寄せた。これが最後かもしれない、だからお願いだ。ジェフは一度目のキスよりも深く彼を求めた。すると驚くことにブライアンは、ジェフを拒否することなく、キスを返してきた。一瞬たじろぐが、彼の手と舌の感触に体中がとろけそうになり、ブライアンを感じること以外何も考えられなくなった。ブライアンは指をジェフの髪の中に通し、頭の後ろまで滑らせた。ジェフは、前が開いているブライアンのコートの中に腕を入れて、背中に這わせた。二人は密着し、キスはどんどん深くなる。時々浅くついばんだり、角度を変えてまた深めたりしながら、二人は、寝静まった通りで、やどり木の下、そうして熱いキスを交わした。  二人とも、名残惜しそうに唇を離す。今ではブライアンの息も上がり、二人分の白いもやが、ジェフをますます夢心地にさせた。 「…これは、“フォー・ジェフリー”だ(This is “For Jeffrey”.)」自分の額に触れているブライアンの額の温もりが、全身に広がっていく。間近で聞くブライアンの声が、こんなにも心を解かすとは。ジェフは囁くのが精いっぱいだった。 「最高に嬉しいプレゼントだよ。ありがとう」  ブライアンはジェフの方を向いて微笑んだまま、後ずさる。 「じゃあ、もう行くよ」 「うん、そうだね」 ジェフはすっかり寒さを忘れていた。ブライアンがようやく踵を返してゆっくりと家路に向かう。ジェフがその背中に向って叫ぶ。「明日も、来るよね?」ブライアンは振り返らずに手だけをあげる。「もちろんだとも!」  「待ってるよ」ジェフはブライアンには聞こえない声で、つぶやいた。
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