第三話 妻に拒まれる夫

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 ◇  その日、品質管理部の空気は重かった。  佳奈はちらっと視線を隣の席に向けた。同僚の井上智也(28歳、既婚)は朝からずっと押し黙り、時折りため息をついている。 (どうしたんだろう……いつもは小型犬みたいにキャンキャンうるさいのに……)  時計の針は昼の12時を回り、社員は外にランチに行ったり、席でお弁当を食べたりしているが、智也はじっと顔をうつむかせている。 「井上君、お弁当は食べないの?」  食べます、と元気のない声が戻ってきて、智也は床に置いたデイパックから弁当箱と水筒を取り出し、机に置いた。フタを開け、箸で肉団子を口に運ぶ。 「お弁当の写真、SNSに上げないの?」  智也が運営する『僕の妻がかわいすぎる』はフォロワー数3万人の人気アカウントだ。毎日、愛妻弁当の写真をアップするたびに「いいね」やコメントが付く。   「今日はいいんです……」  声のトーンは暗く沈み、箸の動きも弱々しい。 「……何かあったの? 体調が悪いなら早退して――」  佳奈が言葉を止めた。智也の目にじわっと涙が溜まっていた。突然、弁当を抱えるように机に突っ伏し、ううっと泣き出した。  周りの社員がザワつく。「なに? パワハラ?」という声も聞こえる。焦った佳奈は小声で言った。 「ちょっと、井上君。急にどうしたのよ」  周囲のざわめきは止まらない。隣の部署の部長までチラチラこちらを見ている。パワハラで通報されたりしたら大ごとだ。 「藤井さん――」  別の方向から声がした。久保田咲恵だった。  分厚いタラコ唇、大きくてぺちゃんこの鼻、お相撲さんのように肉で潰れた一重の目の上にはゲジゲジ眉毛。ミディアムな髪型が巨顔を包み、前髪はパッツンである。  アパレル系のECサイトの会社には、ファッションセンスの良い、見た目もきれいめな男女が多いので、そのデブスっぷりが際立つ。 「別の場所で井上さんと少し話をしましょう」  佳奈はうなずき、机に突っ伏して泣く智也の腕を掴んで強引に立たせ、泣く子供を引きずるようにフロアから連れ出した。  ◇  社内にあるカフェスペース、丸テーブルに品質管理部の智也と咲恵が座り、佳奈が人数分のコーヒーをお盆にのせて運んでくる。二人の前に紙コップを置き、自分も椅子に座った。 「どうしたのよ。急に泣き出したりして」  智也はようやく落ち着きを取り戻していた。泣きはらした目が赤い。よく見れば頬が痩けて、目の下にクマができている。 「すいません……」 「ちゃんと理由を説明して。久保田さんにも来てもらってるんだから」  レスや夫婦の不和を解決した話が知れ渡り、今や咲恵は社内で悩める社員たちのメンターのような存在になっていた。 「実は――」  智也は妻から夜の営みを断られ、「寝室を別にしよう」と言われたことなど、これまでの経緯を説明した。 「……なるほど。夫婦生活を拒まれて寝室も別にねえ……これは妻側が原因のレスというやつね」  「正直ショックで……僕は絵里に何か嫌われるようなことをしたんでしょうか?」 「浮気とか?」 「してません! するわけないです。僕は妻を世界で一番愛してるんです!」  カフェスペースに大声が響き、先ほどとは別の意味で周りの注目を集める。 「わかった。わかったから……」  佳奈はなだめた。普段はおだやかなのに、ことが妻の話題になると智也は人が変わってしまう。 「奥さんとは最初からレスだったの?」 「結婚前や結婚した後は普通に営みがありました。けど、どんどん減ってきて……」 「じゃあ、もともとアレが嫌いとか、そういうのじゃないのね。ほら、よく聞くじゃない。子供のときのトラウマが原因でセックスが嫌いな人とか……」 「妻に限ってそれはないと思います……」 「じゃあ、結婚した後、奥さんの方に何か変化があったのね。心当たりはないの?」  別に好きな男ができたのでは? と言いそうになってやめた。智也が何を言いだすか。なにせ妻を愛しすぎている男なのだ。 「妻は人材派遣会社で社員として働いているんです……派遣元なので、シングルマザーの人に契約を更新しないことを伝えたりすることもあって……契約を切らないでほしいって目の前で土下座されたりするそうなんです……」 「なるほどねえ、仕事のストレスか。あるかもね。でもそんな大変な仕事をしながら、毎朝、お弁当を作ってくれるなんてすごいわね」  同じ女として尊敬する。佳奈は旦那の弁当どころか自分のお弁当すら無理だ。朝はギリギリまで寝ていたかった。   「ええ、妻は世界でイチバン素敵な女性なんです!」 「はいはい、わかったわかった。だとすると、レスは井上君が言うように奥さんの側に問題があるのかもね」 「やっぱりそうですか……僕はどうすればいいんでしょう?……」 「うーん、そう言われてもねえ……別に井上君が悪いわけじゃないし……」  佳奈はちらっと隣に視線を送った。 「久保田さんはどう思われます?」  咲恵はすっと智也の前に手を差し出した。 「あなたのSNSのアカウントを拝見させていただいてもよろしいかしら?」 「はあ……」  智也からスマホを受け取った咲恵は、過去のツイートをさかのぼるように見ていく。 「おいそうなお弁当ね。これ、ぜんぶ奥さんの手作りかしら?」  咲恵が訊ねると、智也がうれしそうにうなずく。 「結婚して以来、ずっと作ってくれてます。レトルトや冷凍食品はいっさい使ってないんです」  横から佳奈もスマホを覗き込む。SNSには料理以外の写真もアップされていた。服の種類ごとに分けられ、キャビネットに収納された衣服、ピカピカに磨かれた浴槽、 桟(さん)にほこり一つない障子……  これだけ完璧に家事をこなしながら、彼女はフルタイムで正社員として働いている。子供はまだいないとはいえ、スーパーワイフだった。智也が「完璧な妻」とベタ褒めするだけはある。  アカウントは信者フォロワーたちの絶賛であふれていた。曰く「僕もこんな奥さんがほしいです」「尊敬しています!」「片づけのコツを教えてください」……等々。 「あの……それで妻が僕を拒む理由なんですけど……」  咲恵は黙ってスマホを智也に返却した。 「なんとなく想像はつくんですけど……」 「ほ、ほんとですか! ぜひ教えてください」 「あくまで推測です。私の予想が正しいか、少し確かめさせて欲しいことがあります。それで井上さんにお願いがあるんですが――」  肉に押しつぶされたような細い目がキラリと光った。
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