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第一話 愛は試されてこそ
◇
その夜、佳奈はある決意を秘めていた。
そう、今日こそ私は夫とする! 何を? セックスよ、もちろん。
一年半に及ぶレス生活を今夜、終わらせるのだ。準備は万端。男は視覚で興奮するらしいから(マンネリを嫌がる)、ベッドカバーも替えたし、シーツもパジャマも新調した。レスに効くという芳香剤も寝室にこっそり置いてある。
(我ながら完璧! ネットの掲示板のみんな、相談にのってくれてありがとね!)
佳奈は拳を握りしめ、新しく買ったピンクのランジェリー風ナイトウェアで夫が風呂から出てくるのを待った。
「あー、温まったぁ」
バスタオルで頭を拭きながら、スウェット姿の夫の真吾がリビングに入ってくる。
真吾は二つ年上の34歳。通信会社で法人営業の仕事をしている。我が家はレスに突入して一年半目――きっかけは寝室を分けてからなんとなく(ありがち)。
真吾はソファに並んで座り、リモコンでテレビをつけ、バラエティ番組にチャンネルを合わせる。
佳奈はすっと身体を寄せ、ソファの上で膝立ちになり、夫の肩に手を置いた。
「シンちゃん、疲れてるでしょ? マッサージしてあげる」
「あー、いいよ。俺、マッサージ苦手なんだ。なんかくすぐったくてさ」
邪険に手で払われる。
「あ、そ……」
マッサージ作戦はあえなく失敗。レス解消法で必ず名前が出るのが「マッサージ」だ。パートナーとなるべくスキンシップの機会を持ちなさいと。
(けど、シンちゃんはマッサージどころか、私と手をつなぐのも、触られるのも嫌がるんだよ。どうすりゃいいの?)
やがてテレビに飽きた夫は、スマホでソシャゲをやり始めた。ピコンピコンという音が聞こえる。就寝までの貴重な夫婦の時間、妻と会話もせずにソシャゲってどうなの?
「ね、シンちゃん。今日は一緒のベッドで寝ようよ。いつも別々じゃない。私、明日は遅く出勤してもいいように――」
「嫌だよ」
スマホをいじりながら、夫は妻の顔を見もせずに言った。
「ちょっとベッドが揺れただけで俺が目を覚ますの知ってるだろ? しっかり睡眠をとって、翌日の仕事に備えるのも会社員の務めなんだよ」
そうそう、寝室を分けた理由もそれだった(今思い出した)。まあでも、シンちゃん、言うほど起きないけどね。
「でも夫婦なんだし、たまには同じベッドで寝るぐらい……」
スマホから顔を上げ、イライラしたように睨み付けてくる。
「だから嫌だって言ってるだろ」
またスマホに目を落とし、ソシャゲに夢中になる。
「……シンちゃん、私たち、レスだよね」
意を決して佳奈が告げると、夫が、はぁ、とあからさまなため息をつく。
「セックスセックスって、おまえの頭の中、ヤルことばっかかよ……発情期の猫が盛ってんじゃないんだからさ」
「ひどい! 私はただシンちゃんとの愛情を確かめ合いたくて……」
疲れたように夫が髪をかき上げ、額に手をあてた。
「そんなにしたいなら外で走ってこいよ。汗かいて水風呂にでも入ればムラムラなんておさまるって」
「そんな言い方ってないよ……」
声を震わせる佳奈に、真吾がソファを拳で叩きつけるように殴る。ビクッと佳奈が肩をすくませた。
「……頼むよ。俺を困らせないでくれよ。今日は仕事でうんざりすることがあって、ほんとに疲れてるんだからさ……」
いえいえ、働いているのは私も同じですけど。専業主婦じゃありませんけど。今日も会社で嫌なこと私も山ほどありましたけど――そう言いたいのをグッとこらえる。
夫の表情でわかる。レスの話など一秒もしたくない。心底うんざりだという顔だ。全身から拒絶のオーラを発している。
ソシャゲに集中できなくなり、ちっと真吾が舌打ちする。
「あー、最悪だ。なんで嫌なことがあった日って、家でも嫌なことがあるんだよ!」
「……ごめんなさい」
夫はまた舌打ちすると、ソファから立ち上がり、リビングを出て行った。廊下から部屋のドアが荒々しく閉められる音がした。
◇
「はぁ……」
翌朝のオフィス、机に突っ伏した佳奈はため息をついた。
「どうしたんですか? 口からなんか魂みたいのが出てますけど……」
隣の席から後輩の丹野美香が声をかけてきた。歳は三つ年下の29歳。二年前に結婚。子なし。結婚式にも招待された間柄である。
「なんかもうめちゃくちゃ……ウチの夫婦……」
「あー、また例の話ですか」
美香と飲みに行ったとき、レスのことを告白した。彼女はまだ夫と完全なレスと言える状況ではないが、レス予備軍であることが判明し、意気投合した。
「まただめだったんですか?」
「発情期の猫みたいに盛ってんじゃねーよ――いただきました」
「うわ、ひどっ……なんで別れないんですか? あんまり他人様の家の事情に口出す気はないですけど……」
「……顔が好み」
別離に踏み切れないのは、やっぱり夫が好きだからだ(佳奈は面食いだった。悪い? ヤルときにいちばん大事なのはそこでしょ)。惚れた弱みで横暴なところはあっても我慢するしかない。
「おーい、ちょっと集まってくれ」
部長の声がして、佳奈はのろのろと椅子から立ち上がった。田代部長のデスクの周りに部署の人間が集まってくる。
「産休が明けて、今日から久保田が戻ってきた。新しくウチに来た人の中には知らない人もいるかもしれないから――久保田、一言頼めるか」
部長の隣に女が立っていた。
一目見て、ひどいデブだとわかる。ウエストの境界がわからないドラム缶みたいな体型をフェミニンなフラワー柄のニットが包んでいる。フレアスカートらのぞく足はバズーカ砲のように太い。
身体に劣らず顔もひどいブス。分厚いタラコ唇、大きくてぺちゃんこの鼻、お相撲さんのように肉で潰れた一重の目の上にはゲジゲジ眉毛。ミディアムな髪型が巨顔を包み、前髪はパッツンである。
このアパレル系のECサイトの運営会社には、ファッションセンスの良い、見た目もきれいめな男女が多いので、そのデブスっぷりが際立つ。
彼女の名前は久保田咲恵。
年齢は30代後半ぐらい。社歴はけっこうあるが(創業メンバーという噂も)、職位はまだ主任。理由はもう四度も産休をとって、会社にいたり・いなかったりを繰り返しているからだ。
咲恵は一礼をして、みなを見回すように落ち着いた様子で話し始めた。
「ご無沙汰しております。久保田です。育児休暇を頂いていましたが、本日より品質管理部に復帰させていただきました。
休暇中、育児に専念できたのも皆様のおかげです。まだ子どもが小さいので、いろいろご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
頭を下げると、パチパチと拍手が起こる。部長が解散を告げ、社員は自分たちの席に戻っていった。佳奈も自分の席に座った。
「久保田さんって、今度の旦那さんで四人目って本当ですか?」
隣の席の美香が潜めた声で訊いてきた。
「噂だけどね。四人いるお子さん、全員旦那が違うって……別れるときはいつも彼女の側から。昔、旦那さんが会社に押しかけてきて、別れないでくれって泣き叫んだことがあったんだって。又聞きだけど」
「私も人事のコに聞いたんですけど、今の旦那さん、凄腕のファンドマネージャーで年収は億超え、夫婦でタワマンに住んでるらしいですよ。年末調整を提出するとき、欲しくもないのに離婚のたびに財産分与でマンションをもらうから、部屋の管理が大変だってボヤいてたって」
ヒソヒソ話をしていると、咲恵が近づいてくるのが見え、二人は会話を止めた。咲恵が書類の入ったクリアファイルを佳奈の前に差し出す。
「産休中、摩擦や洗濯による色落ちや移染に関するクレームのデータをまとめておきました。お時間のあるときでかまいませんので見ていただき、ご意見いただけますと」
「わかりました」
佳奈は気圧されながらファイルを受け取った。社内の職位は同じ主任だが、社歴や年齢は咲恵の方が上だ。なにより得体のしれない迫力についビビッてしまう。
咲恵は一礼し、少し離れた自分の席に戻っていった。
離れてもデブスオーラをビンビン感じる。と同時に挨拶のときから強烈に発してた、私、男に抱かれてます感がスゴイ。
佳奈は机の上で拳を固く握りしめた。
(なんでウチがレスで、あんなブスが子だくさんなのよ!)
これは久保田咲恵――あまたの悩めるレス妻たちからレス解消の伝説の導師(メンター)と呼ばれた女(ブス)が無双する物語である。
なぜ咲恵は男たちからこれほど愛されるのか? 彼女の何がベッドで男たちを虜にするのか? 真実がここにある!
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