第三話 妻に拒まれる夫

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第三話 妻に拒まれる夫

 ◇  アパレルの大手ECサイト、FUFU LANDのオフィスはリバーフロントにあり、採光の良い明るいオフィスでは、今日も活気にあふれた若い男女が働いている。  オフィスの時計は昼の12時をさしていた。昼食時間は特に決まっておらず、各自で好きにとる。社員の多くは会社近くの店にランチに行くが、自分の机で済ませてしまう者もいる。  久保田咲恵はA4サイズの紙の束をホッチキスで留めると、席から立ち上がり、品質管理部の同僚たちに資料を渡していった。 「自社検品で発生した不良やクレームについてのレポートです。午後の会議で配布するので先に読んでおいてください」  若い男性社員の席に来たとき、あら、という感じで足を止めた。 「素敵なお弁当ですわね」  ちょうど箸で揚げ物を挟もうとしていた若い男性はにこっと微笑んだ。その瞬間、近くにいた佳奈があわてたように声を挟む。 「あの、久保田さん――」  が、その声に被るように明るい声がした。 「はい、妻が作ってくれたんです!」  佳奈が、あちゃーという感じに頭を抱え、咲恵が首をかしげる。  品質管理部の社員・井上智也は28歳。どこか少年っぽさを残した、大学生といっても通じる童顔である。一年ほど前、付き合っていた四つ年上の女性と結婚した。子供はまだいず、どこか新婚気分が抜けない。 「よければどうぞ見てください。妻が作ってくれた愛妻弁当です。フランス料理にお詳しい久保田さんからすれば、物足りないかもしれませんが……」  差し出された弁当箱を咲恵がふむ、といった感じで覗き込む。 「……梅しそチーズロール、ブロッコリーのマスタード和え、ほうれん草のだし巻き卵……どのおかずも一品一品手が込んでるし、栄養のバランスもよく考えられていますわね」 「ありがとうございます! 久保田さんにそう言ってもらえると、妻も喜ぶと思います。あ、ちょっといいですか――」  スマホに手を伸ばし、高速で文字を打ち込む。いぶかしそうにする咲恵に、智也がスマホを見せた。 「僕が運営しているSNSのアカウント『僕の妻がかわいすぎる』です。今、同僚の方に妻の弁当を褒められたことをつぶやきました。見てください。いいね、がもうこんなにたくさん――」  フォロワー数は3万人以上、けっこうな人気アカウントだった。毎日、妻が作ってくれた愛妻弁当の写真をアップし、自分の妻の素晴らしさをひたすらつぶやいていた。 「奥さんのことが大好きなのね」  よくぞ言ってくれた、とばかりに智也はうなずく。 「はい! 僕は妻のことが好きで好きでしかたないんです。見た目も、性格も、料理も、センスも、妻は完璧なんです。世界一の奥さんと一緒にいられて本当に幸せです!」  目をキラキラさせて妻の素晴らしさを語る。智也は仔犬のような人なつっこさがあり、どうにも憎めない。上に姉が二人いるらしいから、生来の弟気質なのだろう(奥さんも姉さん女房だ)。 「井上君、そのぐらいしておきなさいよ」  見かねて割って入ったのは佳奈の隣にいた同僚の丹野美香だ。 「あなたが奥さんを大好きなのは、よーくわかったから」  妻ラブな智也に「お弁当が素敵ね」なんて褒めたら、品質管理部の人間ならこうなる展開は読めていた(産休明けで復帰した咲恵はまだ智也のことをよく知らなかった)。だから、佳奈は止めようとしたのだけど手遅れだった。  美香が騒がしい部下の粗相を咲恵に詫びた。 「すいません、久保田さん。井上君、とにかくこういう人で……本人に悪気はないんですけど……」  咲恵の視線が井上の机に向けられた。結婚式で撮ったと思しき夫婦の写真。PCのデスクトップの背景、スマホの待ち受けも妻の写真という徹底ぶりだ。 「井上君、奥さんが大好きなのはわかるけど、ちょっとやりすぎじゃない? これじゃストーカーよ」  茶化すように美香の言い方だったが、内心はあきれているのだろう。実際のところ、智也の妻ラブ話というか、ノロケ話にはみんな辟易していた。 「そ、そうですかね……」  シュンと智也が小さくなる。このあたりのしおらしさというか、かわいらしさが年上女性にかわいがられる部分なのだろう。  咲恵が慰めるように言った。 「妻を愛していることは隠すことじゃありませんわ。あなたは素敵な旦那さんですよ。素晴らしいことじゃないですか。私もほら――」  咲恵が自分のスマホを差し出した。待ち受け画面は例のイケメン夫、久保田アーサー貴士の顔写真だった。  佳奈は伊豆にキャンプに行ったときに実物を見ていたが、美香は噂に聞く夫に興味津々といった感じでスマホを覗き込んだ。 「うわ、すごいイケメン! モデルさんですか? 俳優さんですか?」 「夫は普通の会社員ですわ。でも私も井上さんのように夫の写真は常に見えるところに置いています。プライベートで「夫グッズ」も作っているんですのよ」 「夫グッズ……ですか?」  咲恵がスマホで写真を見せる。夫の顔がプリントされたウチワ、夫の顔が漫画風に描かれたTシャツ、夫のネームが入ったフェイスタオル……アイドル顔負けのグッズの数々に圧倒される。  ドン引きする美香の隣で、智也が感嘆のため息をつく。 「すごいです……さすがは久保田さん。僕も妻のグッズを作ってみたいです。こういうのって、どこで発注すればいいんですか?」 「ネットで発注するの。すごく簡単よ。よろしければ、安くて評判のいいサイトをご紹介しましょうか?」 「ぜひお願いします!」  グッズ製作話で盛り上がる二人を、佳奈はちょっとうらやましい目で見ていた。  彼らは決してレスなんかとは縁が無いだろう。自分のように他の男の存在を匂わせ、嫉妬心を煽る必要もない。 (井上君の奥さんがうらやましいな……あんなに愛されて……ちょっとKYなところはあるけれど、井上君って、純粋でいいコだもんね……)  彼のSNSアカウントが特に女子に人気があるのはわかる気がする。夫からこれだけオープンに「妻が好きだ、妻を愛している」と言われて、喜ばない女性はいないだろう。  ◇  その夜、井上夫婦の住むマンション――  ベッドランプの淡い照明が照らす寝室、大きなダブルベッドで、スウェット姿の智也が腰まで布団をかけ、ヘッドボードに背中を預けていた。 (絵里、早くお風呂から出てこないかな……)  妻が寝室にやって来るのをウキウキした気分で待っていた。社内で恋愛のメンター(伝道師)と言われる咲恵に認められたのだ。気分が浮き立つのも当然と言える。 (今夜こそ、僕は絵里とするぞ!)  何を? もちろん夜の営みである。妻が好きで好きでしかたない彼は、本当は毎日でも「したい」のだけれど、ここ最近、あまりできていなかった。 (絵里に断られるんだよな……仕事が忙しくて疲れてるからって……)  妻は人材派遣会社で正社員として働いていた。派遣先の都合で、派遣社員の契約を切る通告をすることもあり、ストレスの多い職場だった。  ガチャと寝室のドアが開き、水色のパジャマ姿に着替えた妻の絵里が入ってきた。  眼鏡をかけたクールな風貌、大家族で育ち、明るくおしゃべりな智也とは対照的に、一人っ子の妻はよけいなことはしゃべらないし、いつも物静かだ。  絵里が布団の下に潜り込むと、智也が言った。 「ねえ、マッサージをしてあげるよ」 「……え? いいわよ。今日はもう早く寝たいから」 「そう言わずにさ。疲れてるんだろ」  布団をめくり、強引に妻をうつ伏せにする。空気を読まない夫にどこかあきれつつも、絵里はされるがままになっていた。 (マッサージこそレス回避の最強ツール――ネットにもそう書いてあるもんね)  身体を揉みほぐしながら妻をその気にさせる。智也のいつものやり口だった(ワンパターンとも言える)。  お尻に馬乗りになり、太ももから内ももをほぐすように揉み込んでいく。徐々に妻の頬に朱が差してくるのがわかる。 (ふふ、絵里のやつ、口ではあんなことを言ってたけど……)  もう一押しで落ちる、そう思ったときだった―― 「はい、ストップ」  妻が腕を上げ、夫の身体を突き落とすように身体を反転させる。 「疲れはとれたわ。ありがとう。今日はもう寝るわね」 「ええ!?」  ガチめなトーンで言われ、智也はショックを受ける。最近このパターンばかりだ。いい雰囲気になりかけても、妻があからさまに拒否してくる。  呆然とする智也に絵里が告げた。 「ねえ、提案があるんだけど」 「何?」  智也の顔がパッと輝く。今日は疲れているけど、明日ならできるとかだろうか。予備日を提示してくれるなら引き下がってもいい。 「寝室を分けない? 私とあなたじゃ出勤時間が違うし、私は朝、お弁当を作るから早めに起きなくちゃならないし……」 「え!? でも……」  愛し合う夫婦の寝室が別々だって? 智也の価値観ではあり得ない。どんなことがあっても夫婦は同じベッドで寝るべきだ。 「考えておいて。模様替えをするなら週末にしましょう。おやすみなさい」  絵里は布団を被ると、智也に背中を向けて寝てしまった。全身から拒絶のオーラが出ていて、さすがに手は出せなかった。 (どうして?……僕たち、昔はあんなにラブラブだったのに……)  どこか他人のように遠く感じる妻の姿を智也は呆然と見つめた。
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