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番外編 全部、嘘です
貴方がおれのために泣いてくれたあの日から、おれの心の真ん中に貴方がいる。
貴方が幸せになることをいつだって願っている。
そして、貴方を幸せにするのはおれじゃないことも分かっている。
分かっているんです、先輩。
ブレイブの訓練の帰り道、夕方だというのにまだまだ暑くて、歩いているだけで汗が噴き出してくる。
おれと桐谷先輩はぽつりぽつりと話しながら、暑さに耐えて歩く。何度も繰り返した帰り道、おれはこの時間が好きだった。いつも明るい先輩も、沈黙が苦ではないようで、静かな時間を楽しんでいる。おれもそんなに話すのが得意ではないから、無理をしなくていいのは楽だった。
本当は、先輩といられるだけで嬉しいというのは、おれだけが知っていればいい。
だらだら歩いているといつも分かれ道にたどり着く。幸せな時間がいつも通りに終わる、そのはずだった。
「先輩、ではここで」
「まって」
おれが別れを告げようとすると、先輩が制止をかける。先輩は何かを告げようとするが、目を泳がせて言いよどむ。しかし決心したようで口を開いた。
「香山、好きだ。オレと付き合ってほしい」
夏の西日が先輩を照らす。黒曜石のような黒いその瞳には、燃えるような熱を孕んでいる。
聞かなくたって分かる。先輩は本気だった。
気が付いたおれにわき上がってきたのは紛れもなく歓喜だった。はちきれんばかりの幸せが心を占める。しかし嬉しさで浮足立ちそうなおれを、冷静な自分が諫める。
―――――おれに幸せにできると思うのか?
出来ない。おれには出来ない。即座に答える。先輩が選ぶべき人はおれじゃない。
一気に冬が来たかのように、心が冷えていく。おれの答えは1つだった。
「すみません。先輩のことは先輩としか思えません」
おれは無難な断りを入れて、深々と頭を下げることしか出来ない。
「頭を上げてよ、香山。謝らせたかったわけじゃないんだ」
先輩の少し困ったような、でも優しい声が降ってくる。顔を上げれば、先輩は眉を下げて笑っていた。
「謝るならオレの方だよ。男に告白されるなんてきつかったろ。ごめんな」
先輩はしょんぼりと肩を落とした。
ああ、違う、違うんです。先輩にそういう顔をさせたかったわけじゃないんです。
頭の中でそう思ったけど、声に出すわけにはいかなかった。ほんとのことを話すしたくはなかったから。
「い、いえ。そんなことは思ってないです。少し驚いただけですから」
またおれは嘘を重ねた。好きな人に嬉しいさえも言えなくて胸が苦しくなるけど、先輩のためだと嘘を貫く。
ただピクリともしない自分の表情筋が嫌になる。嘘でも少し笑えたら、きっと先輩も気が楽になるだろうに。でもそういう自分だからこそ、おれは先輩を振らなきゃならない。
「そっか」
先輩はほっと胸を撫でおろす。その様子をみておれも息がしやすくなった。
「聞いてくれてありがとな」
にかりと先輩が太陽のように笑った。
その顔が好きだなと、ぼんやりと考える。一緒にいるだけで心が暖かくなるような、まぶしい笑顔だった。
「じゃあ、またな」
先輩が手をひらりと振って歩を進めた。
「では、また」
おれはぺこりと頭を下げる。そして先輩の背を見送った。
―――幸せになってください、先輩
心の中でつぶやいて、おれも帰路に着いた。
それからの先輩との日々はさほど変わらなかった。そもそも、先輩との関わりはブレイブの訓練時くらいだし、2人きりの時間もあまりない。
ブレイブに就職した五十嵐先輩が抜けたメンバーで、わいわいとにぎやかに訓練を行っている。とくに賑やかなのは女性陣2人だが、先輩も楽しそうにしている。
幼馴染というだけあってか、先輩と浜中先輩は仲がいい。浜中先輩は個人的には苦手だが、素敵な人だと思う。
明るくて、前向きで、頑張り屋。おれなんかより、先輩を幸せにできる人だ。
2人が仲よさそうにいる場面を見る度に、お似合いだと思う。自分の判断は間違っていなかったと、本当に心から思う。ちくりと痛む胸は無視して。
ほんの少し変わったのは、先輩の眼差しから熱を感じるようになったことだ。おれに向ける視線に、ちりちりとした熱を感じる。その視線を感じる度におれはあの日のことを思い出すけど、気付かないふりをする。
いつか先輩がおれのことを好きじゃなくなる日を願って。
そしてその願いはある日叶ってしまった。
ある日、先輩がブレイブの訓練に遅刻すると連絡が入った。どうやらトラウマの暴走に巻き込まれたそうだが、けが人がいないのとすぐそばなので、関係者を連れてくると告げ連絡を切った、と島田さんが言っていた。
「島田さん、連れてきました」
座学の訓練を始めて間もなく、先輩は教室に現れた。後ろには男女を引き連れている。
男はかっちりとしたスーツを着て、髪もきれいにまとめているが、どこかやつれている様子だった。一方女性のほうはふわふわとパーマをかけた長い茶髪をハーフアップにし、ピンクと白のフリルたっぷりの服を着ながら、いら立っている様子だった。
「お疲れ様。後ろの方が関係者さん?」
「そうです」
島田さんは真面目くさった顔をして二人に近寄る。
「初めまして、ブレイブ職員の島田と申します。お手数ですが、別室でお話をお伺いしても?」
「え、ええ、大丈夫です。ただ…」
男はおどおどとした態度で承諾したが、ちらちらと女の方をみた。
「なによ、あんたなんか知らないって言ってるでしょ!」
男の視線に気が付いた女は、きつい口調で言い放つ。男は気が弱いのか、すっかり萎縮してしまった。
「え、これどういう状況?」
「おれもよく分からなくって、最初2人は口論というか、女性の方が男性に詰め寄っていたんですけど、急に男性のほうから、こうぐわっと、突風?みたいな衝撃がきたんです。そうしたら女性が男性に急にそっぽむいて…。男性の方も怯えていたので、ただ事じゃないと思ってきていただいたんです」
先輩もよく分かっていないのか、擬音語を交えたふわふわとした説明をする。島田さんは顎に手をあて考え込んだ後、開き直ったように提案した。
「ま、よくわからないのでお二人にそれぞれお話をお伺いしましょう。今案内しますね。代理の職員呼んでくるから、ちょっと待ってて」
はい、と4人の声が重なる。先輩が席に着こうとする際、目が合った。その目に、熱はない。
「あれ、君はだれ?新入り君?」
先輩の言葉でぴしりと教室の空気が固まる。
おれはその言葉を飲み込むのに精いっぱいだった。
「正君何言ってるの!冗談でもそんなこと言っちゃだめだよ。あんなに香山君と仲良かったのに」
いち早く声を出したのは浜中先輩だった。その声は鋭く、浜中先輩の怒りが伝わってくる。
先輩は浜中先輩が本当に怒っているのが分かり、困惑している。
「ま、待て美佳。え、オレ、香山君?と知り合いなの?」
先輩は慌てて浜中先輩を止め、おれに視線を戻した。
目を見れば、分かる。先輩は嘘をついていない。本当に、おれのことをおぼえていないのだろう。その証拠に、あのひりつく様な視線を感じない。
「大した知り合いではないので、お気になさらず」
そうして、おれはまた嘘をついた。先輩が傷つかないように。
だって、願いが叶ったのだ。先輩はおれを忘れた。おれを好きじゃなくなった。
これで先輩は、もっとちゃんと先輩を幸せにできるような、まっとうな人間を好きになれる。それを喜べるのが、おれの「好き」の形だった。
「でも、忘れてしまってごめんな」
先輩は眉尻を下げ、しょんぼりとした。先輩のこういうところは変わらないみたいだ。
「大丈夫、ですよ」
少しでも笑って欲しくて慰めの言葉を駆けてみるけど、上手く笑えなかった自信があった。あーあ、これだから、おれは。
先輩の記憶喪失を受け、島田さんたちは2人への事情聴取を急いだ。1時間ほどの時間をかけ事情聴取を行ったところ、先輩の記憶喪失は男性の「トラウマ」によるものだろう、と結論付けられた。
島田さんは、先輩たちにトラウマの影響で忘れている、とだけ説明したが、おれにはほんとのことを教えてくれた。
「勇気君も被害者と言えるからね。ほんとのことを教えようか」
島田さんの話をまとめるとこういうことだった。
まず女性の名前は「安藤 ひかり」。男性のことは全く覚えておらず、直前に口論していた記憶もなく、「気がついたらそこにいた」らしい。
そして男性の名前は「大田 俊也」。どうやら安藤とは合コンで知りあったそうだ。大田にその気はなかったようだが、安藤にしつこく言い寄られており、ストーカーまがいのことをされていた。安藤の行動が恐ろしくなり、連絡等は全て絶っていたのだが、今日はとうとう往来で捕まってしまった。一目があるにも関わらず、安藤に強引に愛を述べられ、大田は怖くなりパニックになった。そして気がついたら安藤が自分のことを忘れていた。
2人の話を統合すると、大田は安藤の強引な求愛に恐怖し、「トラウマの暴走」が起きたということだった。トラウマの内容は、周りの人間が自分の好きな人を忘れる。
大田はトラウマカウンセリングを受け、トラウマはなくなった。しかし、安藤の記憶が戻ることはなかった。結果として、大田のトラウマにより、両者の問題は穏便に解決した。
「でも、正護君の問題が残ってるんだよねぇ。どうしたもんか…」
一通り話終えた島田さんは、大きくため息をついた。一縷の望みをかけ、先輩もトラウマカウンセリングを受けてもらったが、記憶が戻ることはなかった。
自分も受けたことがあるから分かるが、トラウマカウンセリングはトラウマに特化したもので、一般的なカウンセリングとは程遠い。トラウマカウンセリングはどちらかといえば、催眠術に近い。麻酔にも似たような、まどろみに誘うような薬を飲まされ、香の炊いた部屋で延々と「トラウマ」という力はなかった、と言い聞かされるのだ。平時ならうっとうしいと思うだけだが、薬や香のせいか聞き入れてしまい、意識が戻るとトラウマが使えなくなっていた。
「待つしか、ないんじゃないですか」
ぽつりと声がこぼれた。
「それは、そうだけどさあ」
おれの発言に、島田さんは納得がいかないようだった。
「それに時間がたてばふっと思い出すかもしれませんし」
現状、先輩に対して打つ手がない、であれば待つしかない、というのは一般論だと思う。別に思い出さなくていい、とも思ったが、流石に口に出すのは憚られた。
「でも、勇気は大丈夫なの?」
島田さんが心配そうな顔でおれを見つめていた。島田さんの心配は当然だ。島田さんの目から見ても、おれたちは仲のいい先輩後輩だっただろう。そんな相手に、忘れられてしまえば心に傷がつくだろう。でも、おれは。
「大丈夫です」
おれの望んでいたものが手に入ったのだ。その代償に忘れられたって、泣くわけにいかない。
このときのおれは、忘れられるということの重さを、分かっていなかった。
先輩がおれのことを忘れてから2週間ほどたった。
「組手の相手、よろしくな、香山君」
2週間たっても先輩の記憶は戻らなかったけど、いつも通り優しい人だった。
でも浜中先輩から移ったのか、未だおれを「君」付けだし、笑った顔もどこか作り物じみている。
「よろしく、お願いします」
どうしたって違和感があるせいで、おれもぎこちない態度をとっている。その結果、先輩はおれとの距離を測りかねている。おれたちの関係は悪循環だった。
「2人とも準備はいい?それじゃ、はじめ!」
島田さんの掛け声でおれたちは動き出す。
先制したのは先輩で、右の拳を繰り出す。おれは横に動いて躱すと、先輩の脇腹当たりを狙って回し蹴りをする。
先輩は一度下がって躱すと、左の拳を振り上げた。その拳をいなし、おれも左で先輩の顔を狙うが、躱されてしまった。すかさず先輩は回し蹴りを仕掛けてくるが、左腕でガードし、あえてよろめいてみせた。好機ととらえた先輩は、得意の右手を振りかぶる。
おれはその右腕をとり、先輩を投げた。
パアン、とキレのいい音が、道場に響き渡る。
「はい、やめ!いやあ、きれいだったねえ。大丈夫?正護君」
投げられた先輩は、むくりと上体を起こすと腰をさすった。
「大丈夫です」
島田さんに心配をかけまいと、先輩はにこりと笑う。そして、すぐさま立ち上がった。
「すごいな、香山君。こういうこともできるのか」
初めて見ましたという風に、尊敬と驚きを混ぜて先輩は告げた。
そしてやっとおれは、目の前にいる先輩は、おれの知っている先輩じゃないことを思い知る。
先輩とおれは、数えきれないほど組手をしてきて、お互いの手は割れている。先輩を投げたのだって何回もあるし、防がれたことも何回もある。なんなら、先輩にだってできるはずだった。おれと練習したんだから。
でも今の先輩にそんな記憶は、ない。
胸の中が、まるで風が吹いているかのように寒い。
これが、忘れられるということか。
おれたちが今まで積み重ねてきたたくさんが、くずれていく音がする。
「香山君、大丈夫?」
何も言わないおれに、先輩が心配そうに声をかける。
「大丈夫です」
ぶっきらぼうに言い放ったおれに、先輩も深くは聞けず、そっか、と苦笑いをした。
その笑い方は、嫌いだった。
残暑のつらい帰り道を、1人でとぼとぼと帰る。少し前までは先輩や浜中先輩と一緒に帰っていた。でも今は、先輩たちは2人で帰っている。そこに入れるわけがなかった。
先輩に会ったばかりのころ、2人で寄り道したコンビニが目に入る。あの頃は、訓練生が2人しかいなかったから、ずっと2人でいた。
ああ、そうか。偶然だったんだな。おれたちの距離が近かったのは。
たまたまおれたち2人だけで、2人でいるしかなかったから。そうじゃなきゃ、こんな人間の欠陥品みたいなおれと、その存在を誰からも祝福されるような先輩が一緒にいるわけないもんな。
今のおれたちの関係からしても、この考えは正しいように思える。前までのおれたちは偶然の産物、それがなければ、まともに話すこともない。
これでいい、これでいいと心の中で繰り返す。
先輩が好きだ、幸せになって欲しい。だから、おれじゃだめだ。
普通の幸せを知らない、まともに愛されてこなかった、おれじゃ、だめだ。
こんなおれでは、先輩を幸せにすることも、愛をあげることも、できやしない。
だから、この結末でいい。
気がつけば、おれはいつもの別れ路にいた。意気地のないおれは、この別れ路まで来ないと、大事なことを言えなかった。
―――先輩は、おれの味方ですよね
かつて、母に会うのが怖くてしょうがなかったおれは、先輩に甘えた。当然のようにうなずいた先輩は、ひどくまぶしかった。
―――香山、好きだ
緊張のせいか、男性の中では高めの先輩の声は、少しかすれていた。でもその声は芯のある強さを持っていた。
「全部、忘れてしまったんですね…」
この別れ路だけでも、おれにとって忘れられないことがたくさんある。それなのに、今の先輩にとってはただの通り道だ。
おれのために泣いてくれた先輩は、もういないんだな
愛してるよ、と照れくさそうに友愛を告げた先輩も、何度も組手をした先輩も、おれを好きだと告白した先輩も、もうどこにもいない。
大丈夫?とおれを心配した島田さんを思い出す。
ごめんなさい、全然大丈夫じゃないです。
おれだけが好きで、遠くから幸せを祈っていればいいと思ってた。
先輩が幸せなら、おれのことなんて忘れていいと思ってた。
先輩の世界から、おれがいなくなっても平気だと思ってた。
おれのことなんか、好きじゃなくてもいいと思ってた。
全部、嘘だ。最初から、全部、嘘。
おれのこと、忘れないでほしい
おれのとなりで幸せになってほしい
おれのこと、好きでいてほしい
これらがおれの本当。おれの欲しい物。
でもおれは、先輩の気持ちから逃げ出した。自分に自信がなかったから。
今更だ。本当に今更だ。全部なくなったあとに、自分の気持ちと向き合ったって、どうしろっていうんだ。
息が出来ないくらい、胸が苦しい。汗がにじむくらい熱いはずなのに、体の中は冷えていた。
先輩の中に、おれはもういない。
寂しいと悲しいが混ざったような、それだけでは言い表せないような喪失感を含んだ何か。思わず右手で胸元の服を握りしめた。
こんなとき、先輩はどうするんだろうか。
悲しくて悲しくて、心というものを投げ捨てたくなる。1人では立っていられないような気がして、記憶の中の先輩にすがる。
優しくて、すこし落ち込みやすくて、それでも前を向く先輩ならきっと―――
「足掻く、んでしょうね」
先輩は、もしかしたらへこたれるかもしれないけど、きっと諦めない。どれだけ傷ついても、また立ち上がれる人だから。
そういう人だから好きで、そして憧れた。
本当はまだ怖い。おれなんかより、先輩を幸せにできる人間は山ほどいる。
それでもおれは、先輩がいないと生きていけないって、思うから。
別れ路で立ち止まっていたおれは、再び歩を進める。今更だとしても、諦めたくない。それほどまでに、ほんとは、好きだから。
今日は土曜日の訓練で、午前中には終わった。狭く熱い更衣室の中で、おれと先輩は静かに着替える。おれの心臓はバクバクと力強く脈を打っている。
先輩は今日、浜中先輩と帰らない。正確には、浜中先輩におれが頼んだ。先輩と話したいことがある、と言えば浜中先輩は花がほころぶような笑顔で協力を申し出てくれた。
じゃああたし今日瑠梨ちゃんと帰るから、香山君が正君と帰るといいよ、とおれの背中を押してくれた。
だからあとは、おれが先輩を誘うだけなのだ。一緒に帰りませんか、と小学生のようなやりとり。ただそれだけ言えばいいのに、おれの口はなかなか動かない。着替えも終わり、荷物もそろえ帰る準備は万全だ。声を出そうと、息をすう。
「あのさ、香山君」
「はいっ」
急に声をかけられて、思わず声が大きくなった。
先輩の黒曜石の瞳は、おれに向けられている。
「帰り、コンビニ寄らね?」
へらり。いつかの日と同じように、先輩は緩く笑って誘った。緊張しているのか、先輩の動きには、どこかぎこちなさがある。
「分かりました」
おれも緊張して、思ったより固い声が出た。エナメルバックを肩にかけ、緊張を紛らわそうと肩ひもを強く握る。
「じゃ、いこっか」
先輩も鞄を持って更衣室の扉に手をかけた。
「はい」
先輩は覚えていないだろうけど、あの日の再現のようだった。全く別の理由だが、あの時のおれも、ひどく緊張していた。
先輩に続いておれも更衣室を出る。
おれたちは並んで歩きながらも、ずっと無言だった。
残暑は和らいではきたものの、まだまだ暑い。歩いているだけなのに、だらだらと汗が流れている。真上で輝く太陽がチリチリとおれたちを焦がす。
おれたちはコンビニ入り、アイスコーナーに向かった。当然、あの日と同じ店だった。
「アイス奢るよ。何が好き?」
おれはじっと、アイスが並べられた冷凍庫を見る。
おれは元々、甘い物を食べる機会がなく、味になれていなかった。これには家庭の事情があり、先輩に説明したところ、食わず嫌いはもったいない、と言われ、先輩おすすめのお菓子を紹介された。まずは甘さ控えめな、と渡されたのは半分こに出来るコーヒー味のアイスだった。初めて食べたおれには十分甘かったが、先輩と分け合って食べたせいか、アイスなのに心が暖かくなったのを覚えている。
「これがいいです。半分こ、しませんか」
おれは先輩と食べたコーヒー味のアイスを手に取った。
「いいな。おれもそれ好き」
先輩は目を細めて笑った。先輩がこのアイスを好んでいるのは知っていた。誰かと一緒に食べられるのがいいらしい。その理由は、いかにも先輩らしいと思う。
先輩はおれの手からアイスを取ると、レジに並んだ。おれも一緒に並んで会計を待つ。
2人でコンビニを出て、アイスを分け合った。暑さにやられた体には、冷えたアイスが心地いい。
食べながら歩いていると、先輩が口を開いた。
「美佳から聞いたんだけど、オレ達仲良かったってホント?」
先輩はまっすぐおれをみたから、声を出し損ねてしまった。
「どうして、教えてくれなかったの?」
先輩の口調は、決して責めるようなものではなかった。むしろ、今にも泣きだしそうなほど、弱弱しいものだった。
「もしあのとき、先輩と仲がよかったなんて言ったら、先輩は自分をせめると思ったので」
先輩はそういう人だ。先輩が悪いわけでもないのに、誰かを傷つけたとしたら、きっと自分を責める。
先輩は目を大きく見開いて、2度ほど瞬きをした。そして、ふっと柔らかく笑った。
「前のオレが、香山君と仲良かった理由が分かった気がする」
先輩の真意が分かったわけではない。でも、おれのどこかを気に入ってくれているのだと分かり、胸が強く脈を打った。そのせいで、つい言葉が零れる。
「好きです。先輩」
一度心が漏れてしまうと、止まることはできなかった。
「今更だって分かってます。でも、好きなんです。だからおれのこと思い出して。おれのこと、もう一回、好きになって、ください」
ぽろぽろと、言葉とともに涙がこぼれ落ちてくる。
「おれもう、逃げませんから。だから、お願いします」
とめどない涙はおれの頬をつたり、地面に滴り落ちた。
先輩がおれの頬に手を伸ばし、涙を拭う。
「10割オレが悪いんだけどさ。泣かないでよ、『香山』」
「せん、ぱい…」
先輩は確かに今おれを、「香山」と呼んだ。先輩の顔をみると、眉尻を下げて、困ったように笑っている。
「全部、思い出したから。…忘れて、ごめんな。辛かったろ」
そういうと先輩はおれの体を引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめた。
「ここ、往来、です」
歩行者はいないものの、ちらほらと車が走っている。恥ずかしくって先輩を引き離そうとするが、泣いてるせいか上手く力が入らない。
「泣き顔晒してんのも似たようなもんだろ。泣き止んだら止めるからさ」
そういうと先輩は、おれの頭の後ろに手を回した。マメだらけのその手が、ポンポンと優しくおれの頭を撫でる。
そのしぐさで、おれの顔に熱がたまるのが分かった。顔を隠したくて、先輩の肩口に顔をうずめる。その分先輩の匂いを強く感じてしまい、更に顔が熱くなった。
気がつけば涙は止まっている。おれは恥ずかしくなって、先輩から距離をとった。
「お、泣き止んだか」
先輩はあっけらかんと笑っている。いつもの、太陽みたいな笑い方。
「はい…」
涙は止まったものの、顔のほてりは収まらない。いまひどい顔してるんだろうな、と他人事のように思う。
「言いたいこと、いっぱいあるんだけどさ。おれも好きだよ、香山のこと。だからは、付き合ってほしい」
いつもと違う、甘さを含んだ声と表情で、先輩はおれに追い打ちをかける。
前回の時よりも強い歓喜が、おれの体中で渦巻いている。夏の暑さを忘れるくらい、自分の体温のほうが熱い。心臓がバクバクと力強く脈を打って、少し痛いくらいだ。
好きな人が、自分と同じ熱量を返してくれる。キセキみたいな幸せを、おれは噛みしめる。
「お願い、します…」
照れと嬉しさで、蚊のなく様な声しか出なかった。それでも先輩には聞こえたようで、花が舞っているような、満面の笑みを浮かべている。
「はは、やべ、ちょー嬉しい」
先輩は今にもどこかに飛んでいきそうなはしゃぎようだった。先輩はおれの手を掴んだ。
「嬉しすぎてこのまま帰してやれない。どこか2人になれるとこ、行こうぜ」
おれもこのまま、帰りたくはなかったから、先輩の提案は嬉しかった。
「うちに来ますか?父さん、今日夕方まで帰ってこないので」
おれがそういうと、先輩はハトが豆鉄砲くらったような顔をした。そして悩まし気に眉間にしわを寄せる。
「だめですか?」
「お前、意味分かってる?」
「何の意味ですか?」
先輩の言っている意味が分からず、おれは首をかしげる。先輩は悟ったような顔していた。
「まあ、追々でいいか。じゃ、香山の家お邪魔していいか?」
先輩は自己完結したのか、ころりと態度を変える。
「はい。では行きましょうか」
先輩の真意は分からなかったが、解決したようなので深く聞くことはしなかった。
おれたちは再び歩き出す。いつもよりすこし近い距離がくすぐったかった。
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