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 就職活動を始めなくてはという段になって、めぐみのいる東京で働き口を見つけられたら、とはわずかに脳裏をよぎったものの、企業の面接に向かうための交通費や、いざ決まった際の住むところの初期費用や引っ越し代といった費用面を考えると、現実的ではなかった。両親に頼めば、資金を借りることはできたかもしれないが、友達の家の近くに住みたいという他愛ないわがままを通すために、そこまでするべきではないと考えた。第一、めぐみとの仲だって、いつまで続くかわからないのだ。  就職を機に、彩里は実家から独立するつもりだった。誰にも迷惑をかけず、ひとりで生きられるようになる。それが大前提だ。それには、土地勘があり、家賃や物価が安く、万一両親になにかがあった時すぐに動ける地元での就職が、なにかと都合がよいように思われた。銀行や大学、インフラ企業等に一通りエントリーしてみたものの、志望者は列をなしており、明確な志望動機や職業理解を持たない彩里が採用されるほど、甘い世界ではなかった。彩里は、女性に男性社員のアシスタントとしての役割しか求めない古い体質の中小企業より、男女関係なく実力を評価してくれる会社の方が、まだしも長く働きやすいのではないか、と望みをかけ、内定をくれた中から、地元では名の通った外食産業の会社を選んで就職した。外食チェーンにブラック企業を代表するような悪例が頻出したこともあって、両者をイコールで結びつけて考えるひとも少なくはないが、彩里の就職先、ことに配属された邸宅フレンチレストランは、働きやすい店だった。サーヴィス部門の責任者であるマネージャーの谷は、東京の老舗ホテルでチーフとして働いていたが、母親の介護のため一年前に地元に戻ってきたばかりだった。彩里が新入社員として入社したのは、谷がシェフや社長に掛け合って損益計画や仕入れ業者、メニューにテコ入れし、労務制度を変革して、従業員の期待と士気が高まりつつあった、そんな頃だ。 「この店を、本物のフレンチレストランにしよう。高級感があるのは内装ばかりで、前菜(オードヴル)がグリーンサラダだとか、肉料理(ヴィアンド)がハンバーグだとか、そういうファミレスフレンチではなく、フランスの食文化を汲んだ、一流の、大人がドレスアップして非日常の一夜を過ごす、そんな店が、地方にだってあっていいと俺は思う」
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