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 彩里は就職してから、常に全力疾走の季節の中にいた。レストランのホールではヘッドウェイター(シェフ・ド・ラン)として、それぞれの客の目的や個性に合わせた適切なサーヴィスを提供し、バックヤードでは後輩たちに平常業務を教えながら、惜しみなく自分の学習や練習の成果を分け与え、規範となれるよう努めた。オペレーションの障害になりそうな人間関係のしこりを早期に解決することにも心を砕いた。通勤時と退勤時には接客用のフランス語と英語の音声講座を聴き、休憩時間と帰宅してからの時間はそれ以外の学習にあてた。食の文化は奥深く、どれだけ本を読んでも、知らないことがいくらでも出てくる。物語の世界に遊びに行くことやお絵描きの時間はほとんど取れなくなったが、月に一度、めぐみと通話をする時間は、睡眠時間を削ってでもひねり出した。常に気が張っていたが、ふしぎと疲労感は感じず、体力も気力も充実していた。ランナーズ・ハイのような状態だったのかもしれない。  それに、彩里がメートル・ド・セルヴィス杯の準決勝進出を決めてからというもの、職場の空気、同僚たちの仕事への取り組み方が、目に見えて変わってきた。  谷は日頃から従業員に向かい、本気でやれ、やれば変わる、本物は伝わる、と檄を飛ばしていたが、サーヴィスの専門学校を出てもいない地元出身の彩里を、数年で一流の看板を背負ったエリートたちと対等に渡り合うまでに育て上げた実績が、彼の言葉に説得力を与えた。無名の自分たちが高みを目指すことは決して空想上の物語ではないのだと信じた同僚たちは、熱心に自身の課題に取り組み、厨房や他のホールスタッフとの連携を密にして、レストランを訪れる客の要求を期待以上の水準で叶えるべく尽力した。彩里はその熱の先頭にあって、皆を牽引できるよう、ますます研鑽に励んだ。  やがて谷は、彩里をチーフに昇進させてホールを任せ、自身は司令塔として裏で指示するようになった。入客数の少ない時間、谷はよく彩里をレストランの広い駐車場に連れ出し、職場の問題を相談したり、彩里の抱える課題に助言をくれたり、失敗談や難局を乗り越えた時の話などを、経験の種にと教えてくれたりした。身内に厳しい谷が、若輩者の自分を右腕として頼みにしてくれていることが、彩里の自信の基になった。 「お前がいてくれたら、ミシュラン地方版掲載も夢じゃないな」  そう言われた時、彼の夢を叶えるためなら、自分はどんな苦労も苦労とは思わないだろう、とまで思った。  そしてそれは、決して手の届かない夢ではなかった。もう見えている場所にそれはあって、あとはまっすぐそこに向かって歩いていくだけのように思われた。
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