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 しかし、ある日突然、フレンチレストランの閉店が告げられた。メートル・ド・セルヴィス杯出場から半年後のことで、彩里たちにとっては寝耳に水の話だった。  可聴域ぎりぎりのくぐもった声で話を終えた社長が店から出て行った後、動揺する社員を集めて落ち着かせた谷は、頃合いを見て、いつものように彩里を駐車場に連れ出した。 「……社長の体が、もうあまりよくないらしい。それで、相続対策という体を取っているが、親族連中が、自分たちに理解できないこの店を潰すよう、社長を説得したんだろう。何度も会議で聞かされた、研修だコンクールだと意識が高いのは結構だが、それを理由に社員に手当をつけるのはまかり通らん、他店から不公平だと文句が出ると。どうしてもやりたいなら持ち出しでやらせろ、だと。ばかばかしい。仕事のために身につけてもらう技術を、持ち出しでやらせる馬鹿がいるか」  谷はもちろん閉店のことを事前に知らされていたのだろうし、きっと社長に思い直すよう何度も掛け合ってくれた筈だ。  しかしこの事態を覆すことはできなかった、おそらくはその反動で、感情的な横顔を初めて彩里に見せていた。  彩里は彼の分まで冷静でいるように努めた。本当に閉店するなら、不安がる同僚たちをまとめ、最終日の最後の客まできっちり送り出さなければならない。もちろん、閉店しなくて済むなら、どんな妥協も受け入れるつもりだった。 「給料や待遇の格差が不満を集めるというのなら、わたしは、他店の一スタッフと同じ扱いでいいんですが……それで店を閉めなくて済むのなら」  なんの分野でもそうだが、サーヴィスのレベルというのも、一朝一夕にあがるものではない。ある程度規模の大きな店ならなおさら、日々の地道な教育と訓練、各人の努力と才能、職場の雰囲気や相性など様々な要因が重なって、ようやくマーチングバンドのように一糸乱れぬ動きや意思疎通を可能とするのだ。一度、従業員がばらばらになってしまったら、たとえ営業を再開できたとしても、今と同じレベルに引き上げるまでには相応の時間と手間が必要となる。 「……閉店理由はそれだけじゃない。売り上げが、評判ほどにはあがってこない。特にディナータイムだ。元々この店のやろうとしていることは、結果が一年二年で出ることじゃない。社長が理解を示してくれたから始めることができた。が、この不景気、不振店を切らなければ会社全体が危うい、と銀行から言われ、親族どもからつつかれ、苦渋の選択なんだろう」  社長を責めるな、と、谷が言っているように聞こえた。彩里は、はい、と相槌を打った。  それにしても、確かに五千円以上のコースがメインのディナータイムは閑散としている日も多かったが、それほど会社の経営が危機的な状況にあるとは思いもしなかった。重役会議から戻ってきた谷が渋い顔をしていたことはあったが、そうした生々しい話を、彼は一言も洩らさず、代わりに皆を奮起させる言葉をかけ続けた。知らずのうちに守られていたのだと、以前より白髪が増えたように見える谷の頭を見上げる。
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