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 訪れた誰もが絶賛するレストランだった。同業者が羨み、常連客が熱愛して県外からも通ってくる、上質な店。その真価は、わかるひとだけわかってくれればいいと、谷はことあるごとに言っていたが、……それではだめだったのだ。富裕層である年配客の大半はジビエやチーズの盛り合わせには興味を示さず、硬いフランスパンを嫌がり、箸はないかと聞いた。ホロホロ鳥の丸焼きをゲリドン・サーヴィスで切り分けたり、英語やフランス語で客に応対したりといった日頃の訓練の成果を示す機会は、さびれた地方都市の山の中腹にあって車でしか行けないそのレストランで、一度も訪れることはなかった。だからと言って、その地方で生まれ育った彩里としては、社長や谷が叶えようとした夢を、絵に描いた餅だと嘲弄する側には回りたくない。叶えたい、と努力している間、彩里は確かに餅の味を舌に感じることができたし、可能ならばそのすばらしさを皆にもわかってもらえたら、と思った。しかし、薄々勘づいていた通り、彩里の趣味はマイナー寄りで、大勢には理解されづらいものだったらしい。 「本物なんて、誰も必要としてなかったんだな……。ここの人間は、誰も」  レストランの窓から洩れる暖色のひかりを見遣りつつ、谷はひとりごちた。東京からUターンしてきた彼が言うには、あまりに悲しい言葉だと思い、彩里は電灯に群がる甲虫たちが立てる、カツコツという硬質な体当たり音に耳を傾けていた。だから、 「……し……」  谷が、口の中だけで転がすように発した短い言葉を、うまく聞き取ることができなかった。  理想家で、有言実行型の、彩里が目標としていた彼のことだ。おそらく、幸せになるんだぞ、だとか、幸せになろうな、だとか、そういった激励の言葉をかけてくれたに違いない。尺に対して言葉が長すぎる、だとか、そういうことはさしたる問題ではない、きっと。大切なのは言葉の中に篭められたものの筈で、それは当人以外の誰にも覗けないようになっている。だから。 (……死ねよとか、沈めとか。そんなこと、わたしの推し上司は、言わない)  解釈違いは、地雷だ。
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