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 戯言のようなプロポーズなら、それから約半年の間に、片手の指では数えられない回数ほどされた。そのたびに彩里は笑って流してきた。もちろん、悪い気などしない。いつでもどうにでも補充可能な友達という存在より、日本の法律では同時にひとりとしか取り結べない結婚という名の契約を望まれる方が、より求められている感が強い。そうやって、めぐみの好意の上澄みだけを特効薬のように拝借していたら、いよいよ焼きが回ったのだろう、とうとう彼女は指輪を持って、夜、彩里の地元駅に現れた。  半年経っても、彩里の身分はフリーターのままだった。シティホテルの宴会課の配膳を週五日、弁当詰めの工場夜勤を週三日。両方のシフトが入っている日は朝から深夜まで動きっぱなしで、それは慣れているからいいのだが、思考放棄としか思えない指示をその場しのぎで繰り出しては撤回する社員と、不機嫌そうにそれに従う先輩がたに囲まれて働くことにどっと疲れを感じていた。中でも、シティホテルでは、その部署で十年以上勤めているという古株の中年バイトに目をつけられ、会場転換(どんでん)の場所を誤って教えられたり、反社的な雰囲気漂う宴会にひとりで送り込まれたり、三日に一度はロッカールームでイヤミや当てこすりの多い指導を受けたりしていたから、なおさらだった。  ある宴会で社員に頼まれてヴィンテージワインの抜栓をした際、ブショネのチェックのために裏で味見したのを、仕事中に飲酒なんて信じられない、と怒鳴られ、そこから一気に当たりがきつくなったのだ。社員はそのことを知っていたが、社内の人脈が広くゴシップ話に精通したベテランバイトの機嫌を損ねることを恐れて口を出さず、彩里も無気力に受けるばかりだったので、事態は悪化する一方だった。  バイトでいいなら、もう少しいい条件で働ける場所もきっとある筈だった。しかし彩里は、バブル時代に建てられ、老朽化とモラルの欠如でゴキブリ御殿と成り果てたその職場に、なぜだか留まり続けた。ロッカールームで件の中年バイトに捕まって一時間以上解放してもらえず、遅刻がかさんだ弁当工場に申し訳が立たなくなって別の工場に移ったことを考えると、自分のことを救いがたい馬鹿だと思いもしたが、どうにもならなかった。  体力には自信があった筈なのに、その頃には、朝ベッドから起き上がるのにかなりの労力を必要としていた。それなのに、夜は目が覚めて眠れず、用もなくネットサーフィンを続けてしまったりする。原因不明の嘔吐感とめまいにも何度も襲われた。めぐみにはシティホテルを辞めるよう何度も説得されたが、慢性的に人手不足の職場を放り出せず、また生活も不安で、一歩を踏み出せなかった。
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