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 そういうわけでもない、と返しながら、彩里は細部を描き込むためにアップにしていたモニターの画面を、等倍設定に直してめぐみの方へ向ける。途端、めぐみはうっ、と呻き声をあげ、両手を心臓に当てて背中を丸めた。知らないひとが見たら、心臓発作でも起こしたのか、と心配になる動きだが、慣れている彩里は動じない。 「待って待って待って。麗しいひとがいる。推しくんがいる……!」 「いなきゃ意味ないです。同人誌なんだから」 「ものすごく! 麗しい! 推しくんが!!」 「恐れ入ります」 「ふわー! なにこの表情、え、なに、尊い……。無理、どいて液晶割る救い出してあげなきゃこの天使」 「落ち着いてめぐみさん、真夜中。あと、パソコンはやめてください、買い直すお金ないから」 「だって推しくんが!!!」  彩里はどう、どうと暴れ馬をなだめるようにめぐみの背中をさする。良識のある彼女が本当にパソコンを破壊するとは思えないが、萌えを極めている時というのは理性が吹き飛んでいる状態でもあるので、勢い余って、という可能性はゼロではなかった。防音のしっかりした鉄筋コンクリート造のマンションだからといったって、近所が寝静まっているような時間に大声をあげることだって、普段のめぐみならありえないこと。  きわめて危ない状態なのだ。なにかに恋をする、ということは。  推し――要はすごく好きになった、応援したいひとを指す俗語だろう。彩里とめぐみの場合、その対象はいつも、アイドルなどの有名人や身近な人間などではなく、二次元のコンテンツ内のキャラクターだった。対象への滾るような愛と思い入れを、ふたりは、何年も前から、ファンアートというかたちで発散している。  箱推しならぬカップル推し、それも男性キャラクター同士の対関係に限定して、原作の読み替えを楽しむ女性たちのことを、少し前まで腐女子、と呼ぶことが多かった。それなのだった。 「……ああ。うるさくしてごめんね。取り乱した。私としたことが……」 「めぐみさんだって、今の今まで、部屋で推しを書いてたんでしょう?」 「叶うなら、自分でつくったごはんより、ひと様のつくった神ごはんをもぐもぐしてたい」  くすっ、と彩里は笑った。本物の神様の書いた原作の足もとには及びもつかないとわかっているが、自分の描くものでめぐみが喜ぶのを見るのは格別嬉しいのだった。 「存分にしてください、もぐもぐ」 「する。満ちる……」  めぐみはお祈りのように両手の指を組んで、うっとりと彩里の描いたコマを見ている。  ヘアバンドで前髪をあげたすっぴん顔が幼くて、まるで恋に恋する乙女のようだと思った。  朝、洗面所で見かける、都内に本社を持つ大手総合商社の係長として出勤しようとしている彼女とは、表情もしゃべり方もまるで別人だ。スーツ姿の彼女しか知らないひとが今のめぐみを見たら、驚くに違いない。
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