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     ◇  筆の進みが遅くて随分めぐみをハラハラさせてしまいつつ、木曜入稿の特急プランを使ってなんとか新刊を発行した彩里は、日曜のオールジャンル同人誌即売会にサークル参加した後、同じジャンルの顔なじみ四名とめぐみと一緒に、池袋のダイニングバーで打ち上げ(アフター)をした。  アルコールが入ってすっかり出来上がった頃、トイレに行く仲間と入れ替わりに、めぐみが彩里の横にすっと腰掛ける。 「ヒダリさん、今日はお疲れ様でした」 「あー、ヨルノさんも」  こういう場所で呼び合うのは、もちろん本名ではなく、お互いがそのジャンルで使っているペンネームないしはハンドルネームだ。仲間たちの、平日はどんなことをやっていて、どういう家族構成で、といったプライベートは、基本的に詮索しないのが不文律になっている。めぐみとは、最初のオフ会の後で本名を教え合って以降、ふたりきりの時は本名で呼び合っていたが、本来その方がイレギュラーなのだった。 「ヒダリさん、新刊、最高でした……! やばかった、我慢できずにスペースで読んだこと、悔やみました、泣いちゃって気持ち持って行かれて頒布どころじゃないったら」 「あ、ほんとですか……恐れ入ります。……やだな、あらたまって、恥ずかしい」 「だってすばらしかったんだもん! 読めてよかった……。ラストシーンのあまりの美しさに鳥肌で……、もう、私、ヒダリさんのファンでよかった! 一生ファンです!」 「あ、あああ、ありがとう、でも、めぐみさん、どうかそのあたりで、勘弁してください」  他のひとに言われるなら嬉しいばかりだが、流石に伴侶からファン宣言などされてしまうと、どういう顔をしていいのかわからない。彩里は周囲に聞こえないよう、めぐみに顔を近づけて囁きかける。しかし、めぐみは酔っ払っているのか赤い顔で、彩里に体の側面で何度も体当たりを食らわせながら、甘えるような声を出した。 「どうして? 私がずっとヒダリさんのファンだっていうのは、本当のことだし。ふつうにしゃべっている時は、ヒダリさんと同じひとだって、なんか実感が湧かないけど……。家だと、うまく言えない気がするから、今のうちに感想言わせてね。本当に、新刊、最高でした。十二月の、夜の背景に浮かびあがる吹き出しの、声の質感とか吐息に含まれる湿度とか、そういうのはありありと伝わってくるのに、彼がなにを言おうとしたのかは、わかるようでわからなくって、なんとも言えない切ない余韻で。小さくなっていく吹き出しが、歪んで、壊れて、溶けて、消えていくのが、深い海の底に沈んでいくひとの、息というか、泡沫みたいだって思った」 「泡沫……ですか」 「もちろん、ヒダリさんがどういうつもりで描いたのかは、わからないけど。もしかしたら、せりふの写植を入れ忘れたとか、そういうあれかもしれないんだけど」 「いえ、それは流石に、ないです。敢えて、です」 「だよね。すごく想像を掻き立てられた、描かれてないからこそ」
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