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「入稿まで? 全部?」
「うん。あとは不備がないことを願うばかり」
「すごい。まだ月曜なのに」
そもそも有言実行のひとではあるけれど、仕事と趣味、二足のわらじ生活は、口で言うほど簡単なことではない。理不尽なほど唐突に命じられる休日出勤や出張をこなしながら、毎回きちんと新刊の原稿を仕上げるところは、尊敬の一言では足りなかった。
「まだって、彩里ちゃん。イベントは今週日曜なんだけど」
「それは言わない約束……」
めぐみと引き比べると、彩里は自分の至らなさを恥じ入るしかなくなる。彩里は正社員のめぐみよりよほど融通の利くシフト制の非正規雇用で、負わされる責任も拘束時間も段違いに少ないにもかかわらず、彼女と一緒に参加する予定のイベント合わせの原稿は、いつものごとく終わっていなかった。時間が足りないのではない。仮にそうだとしたら、いくら修羅場中のめぐみの体調が心配だからといって、手のかかる料理をつくったりなどしない。実際の栄養素より、彩里の新刊が無事出ることの方が、どれだけめぐみを元気にするかわからず、そのことを理解しない彩里でもなかった。絵を描き始めてから、めぐみのくれた本気の褒め言葉が、どれだけ彩里の自信の基になったことか。……その、彼女の期待に応えなくてはという重圧が、筆が伸びない一因ではあるのだろうが、しかし、それ以外はもう、性格だとしか言いようがない。
めぐみも、それ以上彩里を追い詰めるようなことは言わなかった。励まして欲しい時には励ましを、放置されたい時にはそのように、一番ありがたい、と思うことをごく自然に彼女は恵んでくれるし、彩里が見よう見まねでかけた思いやりは、満面の笑みと感謝で受け取ってくれる。互いの間で不幸なすれ違いが発生したことは、結婚してから一度もなく、ふたりの相性がいいというのは否定できない事実だった。
「すごい、具だくさんで専門店のスープみたい。これ、普通に火にかけちゃっていいの?」
彩里は冷蔵庫を開けて歓声をあげているめぐみの隣に行くと、中から大鍋を出して、IH調理器にかけた。
「一口サイズに切ったタマネギ、ニンジン、セロリ、ピーマン、ポロネギ、ズッキーニ、トマト、マッシュルームを軽くブイヨンで煮込んで。お腹すいてるようなら、パスタにもできますけど」
「あっ『真夜中のスープパスタ』じゃない? あの、推しくんが雨でずぶ濡れになって帰ってきた日の。湯気の描写が最高だった、あの」
「そう、そのイメージ。よくわかりましたね」
「そう聞いたら完全形で食べないわけには。うう。でも炭水化物……真夜中……」
「どうします?」
「食べる……」
「かしこまりました。私も半束手伝います」
「助かる~」
彩里は一分少な目にゆで上げたパスタをスープに投入して、軽く煮込んだ後ボウルに盛り付けた。熱々のスープパスタにミルで引いた黒胡椒を振ると、風味づけに入れたブーケガルニの香気と混ざり合って、食欲をそそった。
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