窮鼠は黒猫の姿を見るか

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 教室のいちばん後ろ、いちばん窓際の席、の、隣。そういう何となく微妙におしい感じの席が僕の席である。  隣に座っているのは彼女。教室の中でいちばんいい席を陣取った彼女は、そのきんいろの瞳を閉じてすやすやと眠っている。  眠っている、と分かるのは、僕がそれ相応に彼女のことをいつも眺めているからだ。  窓ガラス越しでもうるさいセミの声と、古文の山本の淡々とした声がダレた教室に響く。  彼女の居眠りの仕方はそれはまあ恐ろしく完璧で、一見頬杖をついてシャーペンを握りノートに真剣に向かい合っている、という風に見えて実はきもちよく寝ているのだ。  ほそくてしろい指からコロリとシャーペンが転がる。彼女はふっと目を覚ますと、ああという顔をしてシャーペンをぐっと握り直し、またすやすやと寝息をたて始めた。  教室の窓から光がさして、彼女の黒い髪が透き通って見えた。  クーラーの効いた教室の中、扇風機の規則正しい風で彼女の髪がさらさらと揺れる。しろい肌は昼の日差しを受けて輪郭線をきいろく光らせており、伏せられた長いまつげが頬に影をおとしている。  この世でいちばんきれいな人だと僕は思った。  きっと、街中のアンティークな店でショーケースの中に美しく飾られたお人形たちも、フランスの美術館で人々の視線を一身に集めている宗教画の聖母も、男性向け雑誌の袋とじの中で自分の肉体を見せびらかしている女たちも、彼女のうつくしさの前では顔を覆わずにいられないだろう。  ビスクドールよりも無機質で、聖母マリアよりも神聖で、グラビアモデルよりも肉感的なひと。僕は彼女を世界でいちばんという玉座に押し上げて、勝手におかしな信仰心を抱いていた。  チャイムがなる。教室の空気がぐらりと緩んで、山本が今日はここまでと言う前に、生徒たちはカチャカチャとシャーペンをしまい出した。  きりーつ、れー、ありがとうございましたー。グダグダの挨拶をして硬い椅子にがたんと座り直し、ぐっと体を伸ばして力を抜いた。誰かが開けた扉からむっとした夏の空気が入り込む。彼女がふらっと立ち上がってどこかに行った。  彼女は二年と少し前の、あの入学式の日から僕の特別だった。  偶然にもふっと視線を移した隣のクラスの教室の隅で、春のやわらかい光を浴びてまどろんでいる姿を見たときから、僕の心は彼女に囚われていた。  眠たげにうすく開かれたきんいろの瞳も、はらりと肩からこぼれ落ちたまっすぐな黒髪も、雪のように眩しい滑らかな肌も、控えめに咲く桜色のくちびるも、その全てがきらきらと輝いて美しかった。  こんなにきれいな人がいるんだ、と思った。一目惚れだった。  肌も瞳も色素のうすい彼女はどこか異国の血を感じさせるが、いたって純粋な日本人だということを僕は知っている。というのも、他の女子と話しているのを聞いただけだが。  仕方がない。僕はいまだに彼女に声もかけられない臆病者なのだから。  そう、僕は二年も前から彼女のことを想っておいて、実のところ彼女と話をしたこともないのだ。  彼女の桜色のくちびるからどんな声が出るか知っている。彼女のちいさい頭に詰まった脳みそがどんな言葉を捻り出すか知っている。彼女のきんいろの瞳がどんなふうに相手を貫くか知っている。でも、それが僕に向けられたことは一度もなかった。  あの入学式の日からもう二年以上経っているのに。今年は運よく同じクラスになれて、しかも二ヶ月ほど前からずっと隣の席に座っているのに。こんなにも僕は彼女を見つめているのに。  だから今朝、陽炎の向こうからそのきんいろに射貫かれた時、固まってしまった。身動きが取れなくなってしまった。いつも他の人に向けられているのを遠くから鑑賞するだけだったその視線が、急に画面を飛び出して僕に向かってきたのだ。  じいっと静かに見つめる彼女の視線に、僕は簡単に囚われてしまった。体が金縛りにあったように動かなかった。  まるで、猫に睨まれた鼠みたいだ。
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