窮鼠は黒猫の姿を見るか

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 皮膚を焦がすような日差しだった昨日と打って変わり、今日は朝から土砂降りの雨が降り続いていた。  体育館の屋根に打ち付ける雨の音が不快感を煽る。シューズが床に擦れるキュッという音、ボールが弾む音、生徒の笑い声。  中央をネットで区切られた体育館。華やかさで溢れる青春の場。そのネットの向こうに、いつもキラキラと光って目をひく彼女がどこにも見つからなかった。 「あ、あの」  なに、と首を傾げたクラスメイトの女子の視線がネット越しに冷たく刺さって、僕は一瞬言葉に詰まってしまう。  人と話をするのは昔から苦手だ。特に、女子にはどう接していいか分からない。なんでもないただのクラスメイトでもこれなのだから、彼女と話すなんてことになったら結果は明白だ。  恐る恐る小さな声で彼女の所在を尋ねると、女子生徒はああと言って答える。 「あの子なら、保健室に行ったわよ。低気圧で頭痛がひどいんだって」  そっか、ありがとう。ボソボソ消え入るような声だったその言葉は正しく届いたか分からない。  保健室。頭痛がひどい。そういえば、今日は朝から何となくだるそうだったかもしれない。雨の日はいつもちょっと元気がなかったかもしれない。  気がつかなかった。あんなにいつも彼女のことを見ているのに、言われるまで不調に気がつかなかった。彼女の変化に気がつかなかった。  保健室のベッドの上で、ひとり苦しそうに頭を抱える彼女。つらそうな彼女を思い浮かべるだけで、僕まで頭が痛くなって胸が締め付けられるように痛くなる――ような気がした。 「あ、おい、避けろ!」  後ろから聞こえたクラスメイトの野太い声にふっと振り返る。  叫んだのはラグビー部の大柄な男子生徒だ。でも、そいつを見つける前に視界に飛び込んできたものは、もっと茶色くて丸い。バスケットボールだ。  パスミスでコート外に出てしまったボールが僕に向かって勢いよく飛んでくる。  近づく。  近づく。  思ったより勢いの強いそのボールは、驚いて固まってしまった僕の目の前までノーバウンドで近づいて、そして――  避けろ、だなんて、そう言われたくらいで避けられたら苦労しないだろ。  ヒリヒリと痛む額を擦りながら保健室のドアを開けた。  中はほどよく冷房が効いて涼しくて、そしてとても静かだった。クーラーや冷蔵庫の控えめな機械音と、少し弱くなった雨の音。おっとりした笑顔の養護教諭さんは、今は席を外しているようだった。  何となくそこにあったソファに腰掛けて、そしてはっと気づいて湿布か何かがないか探すことにする。しかし、たくさんの引き出しの中から湿布を探し出すのは苦労しそうだった。  やっぱり養護教諭さんを待とうか。いや、探すだけ探してみた方がいいかもしれない。  わかっている。  今、すぐそこに彼女が寝ている。そのことにみっともなく動揺して部屋の中をウロウロしているのだ。  クーラーの風でゆらりと揺れるうすいカーテンの向こうにベッドが置いてあって、そこで彼女がうずくまって寝息を立てているのだ。  真っ白なシーツに散らばる黒い髪も、呼吸に合わせて上下する薄い掛け布団も、全てがはっきりと想像できた。ベッドの上で胎児のように丸くなって、少しうつ伏せ気味に顔を隠して眠っている。その寝姿は完全に僕の想像(いや、妄想といった方が正しいかもしれない)でしかないが、あながち間違いでもないだろうと思えるほど彼女に似合っていた。  ふらっと歩き、カーテンの前に立つ。僕が動いた風圧でまたカーテンが揺れた。まだ窓の外からは雨の音が聞こえる。  いや、いやいやいや。こんなところに立ってどうするつもりなんだ。まさか、覗く? いやダメだろ。  でも、今は誰もいない。少しくらい覗いたところで、誰も見ていない。バレなきゃ犯罪じゃないって、誰が最初に言ったんだろう――  一瞬、視界が白く覆われた。  急に膨れ上がるように揺れたカーテンが僕の顔を撫でて、隙間から白いベッドが覗く。  ピシッときれいに敷かれた清潔なシーツの上、掛け布団もかけないでそのまま丸くなっていたのは制服姿の少女ではない。もっと黒くて、ちいさくて、ふわふわしたもの。 「ね、こ……?」 「あら、どうしたの? どこか怪我でもした?」  突然後ろから声をかけられて慌てて振り返る。  それともその子のお見舞いかしら? と見透かしたような顔で微笑む養護教諭さんに、僕は何も言えないでアハハと誤魔化し笑いをした。  いつの間にか保健室のドアは開け放たれていて、養護教諭さんが通ったのであろうそこから風が入ってきていた。  保健室の前の廊下は、進むと昇降口に出るようになっている。おそらく、ドアを開けた瞬間に外から風が吹き込み、室内のカーテンを揺らしたのだろう。 「あの、おでこにボールがぶつかっちゃって」  そこまで言って、僕は本来の目的を思い出した。僕は彼女の様子を見るために保健室まで来たわけじゃなかったのだ。  湿布か何かもらえないかなと思って、と僕がボソボソ話すと、養護教諭さんはあらあらと言って引き出しから湿布を取り出した。手早く湿布を貼り終えると、僕にプリントと鉛筆を手渡して彼女が寝ているベッドに近づいていく。プリントの一番上には“保健室利用シート”と印刷されていた。  僕はプリントを見もしないで、カーテンの向こうに向かって声をかける養護教諭さんを見つめた。不思議に心臓は大きな音を立てていた。  養護教諭さんは彼女の名前を呼んでそろそろ授業終わるわよと話しかけるが、カーテンの向こうから返事はない。まだ寝てるのかしら、と言って養護教諭さんが白いカーテンに手をかけるのを、僕はドキドキしながら見つめていた。 「あら?」  不思議そうな声を上げる養護教諭さんに、僕はとうとう気になってたまらなくなって立ち上がった。  養護教諭さんはベッドのほうに手を伸ばして何かを拾い上げる。僕が近づいてくるのを見ると、拾い上げたものを僕にも見えるように差し出した。 「あの子、帰っちゃったみたい」  養護教諭さんがベッドの上から拾い上げたものは、記入済みの“保健室利用シート”だった。  僕がさっき渡されたのと同じもので、利用者名の欄には彼女の名前がきれいな字で書かれている。ベッドの上にはもう何もなくて、ただ白いシーツが使われる前とほとんど変わらない状態で綺麗に敷かれていた。  僕は呆然として周りを見渡したが、そこにあるのは入った時とほとんど変わらない普通の保健室の風景だけだった。冷蔵庫は相変わらず静かに駆動音を立てていて、クーラーはドアの外から入った暖気を追い出そうとして少しうるさくなっていた。  ソファに置きっぱなしになっていた僕の“保健室利用シート”が風で吹き飛んで、先の丸い鉛筆がカランと床に転がる。外から入ってきた雨のにおいが鼻をついた。  綺麗な毛並みの黒猫の姿なんて、どこにもなかった。
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