窮鼠は黒猫の姿を見るか

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 今日はこの季節の日本にしては比較的気温が低く、風も吹いているので過ごしやすい天気である。  平和な夏の一日である。教室のクーラーが少しおかしな音を立てていること以外は。  あの雨の日から一週間ほど経ったが、あれ以来校内で猫を見かけることはなかった。それはそうだ。それが普通なのだから。  あの後教室に戻ると彼女は普通に席に座っていたし、保健室での僕のちょっと不思議な体験なんて最初からなかったかのように日常は進んでいた。  後々考えると、あれは別に不思議でもなんでもなかったように思えてくる。  ただ一匹の黒猫がどこかから忍び込んでベッドの上で寝ていただけなのだろうし、きっと僕が養護教諭さんに気を取られて目を離している隙に逃げ出したのだろう。代わりのように置いてあったプリントだって、最初から置いてあったが猫で隠れて見えなかっただけかもしれない。  でも、この一週間あの黒猫のことがなぜだか頭から離れなくて困った。  彼女の顔を見るたびに、あの綺麗な毛並みの黒猫の姿が頭に浮かんで困った。  彼女のさらさらとなびく黒髪が、どうしてもあの黒猫の毛並みと結びついてしまう。瞳を閉じて眠っていたあの黒猫が、彼女と同じきんいろの瞳をゆっくりと開くのを想像してしまう。  猫なんて別に好きでもなんでもなかったのに、あの黒猫のことが頭から離れないなんて、変だろう。  昼休みになって、僕はいつものように教室を出た。  わいわいと騒がしい教室を横目に通り過ぎて渡り廊下を渡る。僕の教室から一番近いここの渡り廊下だけなぜか屋根がなく、風がビュウッと通り抜けて制服のシャツをはためかせた。  セミの声が聞こえる。あつい。でも、爽やかなあつさだ。  南館の一番上まで階段を上がっていくと、屋上に続く古いドアがある。ここを知る人は案外少なくて、このドアが実は開いていることを知る人はもっと少ない。僕はここを見つけてからは大体ここで昼食をとっているが、他人と鉢合わせたことは今のところ一度もなかった。  ギイ、と安っぽい音を立ててドアが開く。夏の太陽がギラリと牙をむいた。あまりの眩しさに目をつぶると、瞼の裏でイエローとグリーンの蛍光色がチカチカと点滅した。  目を開けて、思わずあっと声を漏らした。  あまり安全とは言えない屋上の隅、一応フェンスで囲まれた端っこに彼女の姿があった。  小さく膝を抱えて座って横向きに顔を伏せるその姿が、青い空と簡素なフェンスを背景にとても眩しい。僕を攻撃した夏の太陽はうずくまる彼女を祝福していた。  うすく色づいた唇が小さく寝息を立てている。お昼前の授業をエスケープしたと思ったら、どうやらこんなところで昼寝を決め込んでいたようだ。  肩からこぼれ落ちた長い髪がコンクリートの床についてしまっているのを見て、あ、もったいない、と思ってふらりと近づいた。ほとんど無意識のうちにすくい上げた黒い髪の毛が、僕の手の中でさらりと滑る。光を反射して白っぽく光ったその一束は、一本一本が細く柔らかくて夏の日差しの中に溶けていってしまいそうだった。 「なに?」  ぱちっと開いた彼女のきんいろが僕をうつした。驚いて固まった僕の手から黒髪がするりと滑り落ちる。咎めるようにチラッと僕の手を見た彼女に、慌てて手を引っ込めて数歩後ずさった。  まさか、いつから起きてた? 見られた? 引かれただろうか。気持ち悪いと思われただろうか。勝手に髪を触ったのはさすがにマズかったのでは。マズかったよな。ああ、どうしよう。確実に気持ち悪い男だと思われた。  彼女は座ったまま両腕を伸ばして伸びをする。後ろのフェンスがカシャンと小さく音を立てた。  髪をかき分けて首の後ろを掻いた彼女の、半袖のセーラー服から覗くしろい二の腕が目に毒だった。ふあ、と小さなあくびをして、頬を撫でる風に気持ちよさそうに目を細める。  僕が髪を触っていたことなど気にしていないように見えた。  本当のところどう思っているかは分からないけど、なんて思いながらも、少し安心している自分がいる。我ながら女々しい。でも、彼女に汚いものを見るような目でなんて見られてしまった日にはもう死んでしまうだろうと思う。  彼女の後ろ側、フェンスの向こうにギリギリ見えるグラウンドで、男子生徒たちがボールを持って騒いでいるのが目に入った。 「あの、そこ、グラウンドからギリギリ見えるので内側に座ったほうがいいですよ」  先生とかに見つかったらさすがにマズいから、と、思いのほかするりと口から飛び出た言葉に自分で驚いた。  彼女はまだいたの、という顔でぱちりとこちらを向き、少し考えて何も言わずにフェンスから離れた。僕はよくわからない勇気が出てしまって、彼女の隣、少し離れたところに腰を下ろした。  持っていたコンビニのビニール袋をガサガサとあさる。ちらと彼女のほうに目を向けると、彼女は先ほどと同じように座ってじっとこちらを見つめていた。彼女のきんいろの瞳が、青空に染まる視界の端できらりと輝いた気がした。 「君、隣の席の」  そこまで言って名前が出てこないようで、口を薄く開いたまま視線を右上に泳がせる。  僕が名乗ると、ああ、と聞き覚えがあったのかなかったのか曖昧なうめきを返されて、自分影薄いもんな、と心の中で勝手に自嘲した。人の名前を覚えるのが苦手だと彼女は言ったが、きっと気を使ったのだろう。  別に覚えてもらってなくてもよかった。彼女が覚えてなくても、僕が彼女のことを覚えているから。 「もう昼休みなの」  おにぎりを取り出して食べ始めた僕を見て、彼女はぽつりと呟いた。  そういえば、彼女は何も持っていない。弁当を教室に置いたままなのだろうか。それとも、購買で買うつもりで持って来ていないのかもしれない。  僕は彼女が弁当派なのか、それとも買い弁派なのか知らないな、と思った。昼休みに教室にいないせいだ。  購買に行くにしても、ここからだと結構距離がある。僕はビニール袋を持ち上げて、食べますか? と尋ねた。彼女は目を丸くして、僕が持ち上げたビニール袋をじっと見つめた。 「おにぎり、まだある? 鮭かツナマヨがいい」  僕は再び袋をあさって鮭おにぎりを探り当てた。多めに買っておいてよかったと心から思う。  彼女はぐっと体をひねって右手を床につき、左腕をこちらに伸ばす。同じように腕を伸ばした僕の右手の下に皿のように差し出されて、僕はぽんとその上におにぎりを乗せた。  指先は触れなかった。ただ、彼女の指先はつめたそうだと思った。  彼女はぼろぼろと海苔をこぼしながらコンビにおにぎりのビニールを剥いている。僕はペットボトルの蓋を開けてお茶を一口飲んだ。そういえば、彼女は飲み物なしで大丈夫なのだろうか。でも、これを飲んでもらうわけにもいかないし、と意味もなくじっとペットボトルを見つめて考える。  意外と普通に話せていると思ったが、やっぱり緊張しているのだ。ぐるぐると彼女の飲み物について思考が回転している脳みその片隅で、ギリギリ残っていた冷静な部分がそう告げる。  当たり前だろう。二年以上も一方的に片想いをこじらせているのだ。 「あの、それだけで足りますか? チョコとか、いる? 飲み物もあったほうが」  うだうだ考えすぎて、持ってきた昼食を食べ終えたころにようやく今更な質問が口から出る。大丈夫、と簡潔に答えた彼女は、やっと一つのおにぎりをほとんど食べ終えたところだった。  男と女の子ではやっぱり口の大きさとか違うんだな。そう考えたら、急に心臓がバクバクと音を立て始める。  僕、今、女の子と昼飯を食べてるのか? しかも、憧れの彼女と。 「君、いい人だね」  風がビュッと吹いて、彼女の黒くて長い髪が空に舞い上がった。僕はそれを無意識に目で追ってしまって、まともに直視した太陽が白く黄色く眩しい。  ご飯をくれる人に悪い奴はいないって、伯父さんが言ってた。そう言って彼女はすこし笑った。  じゃあ、ありがとうね、と言って立ち上がった彼女は、太陽を背負って黒いシルエットを浮かび上がらせている。彼女の後ろから放射状にのびる太陽光線はまるで後光が射したみたいに見えて、ああ、やっぱりきれいな人だ、なんてまた気持ち悪いことを考えた。  まっくろの彼女の中、二つの瞳だけがきんいろにキラキラと輝いていた。  ぱちりときんいろの目を開いた、綺麗な毛並みの黒猫の姿が頭に浮かんだ。
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