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まだ夕焼けに染まる前の白い校舎を出て、駅に続く道に足を進める。
あの後、昼休みが終わるギリギリに教室に戻ると、机の上に麦茶のペットボトルが置いてあった。驚いて彼女のほうを見たが、彼女は既にウトウトと首を傾けていて、僕はなんとなく声を掛けられなくてペットボトルを鞄にしまった。
午後の授業の内容は、正直に言うとほとんど覚えていない。
何度黒板に集中しようとしてもダメなのだ。屋上でこちらに伸ばされたつめたそうな指先が思い出されて、薄く笑った彼女の顔が瞼の裏で瞬いて、太陽を背負ったきんいろの瞳が脳裏にフラッシュバックして、ダメなのだ。
鞄にしまったペットボトルが、隣の席ですやすやと寝入っている彼女のことが気になって仕方がなかった。先生の声なんて遥か遠くに置き去りにして、ただやっと僕に向けられた彼女の言葉をなぞっていた。
「にゃあ」
声が聞こえて顔をあげる。
前方に見えた光景はあまりにもあの日の朝にそっくりで、うるさい蝉時雨と、にゃあとないた彼女の声もあいまって一瞬幻だと思った。彼女のことを考えすぎて、ついに幻覚まで見るようになってしまったのかと。
しかし、彼女は確かにそこに存在していて、長い黒髪をゆらしながら歩いていた。彼女のローファーのかかとがこつんと鳴った。
「にゃあ」
あの日と同じように、彼女がなく。彼女の足元にまとわりつくように歩いている茶トラの猫が、やっぱり同じようにうにゃ、と低い声でないた。
彼女は歩く。茶トラも歩く。その後ろを、僕も歩く。誤解がないように言っておくが、決して彼女のあとをつけているわけではなく、単純に道が同じなだけだ。
彼女の細い髪が風になびいて、長めのスカートがばさりとはためいた。彼女が茶トラを見下ろすたびに、少し横を向いた彼女の頬がしろく光った。
彼女はそのまま少し歩いた後、駅へ続く道から逸れて細い路地に入った。僕はそれをぼんやりと見つめて、ああ、やっぱり奇跡ってそう長くは続かないものなのだ、と思った。もしかしたらこのまま駅まで一緒かもしれない、なんて、思うだけ無駄だったのだ。
熱に浮かされたようにうまく働かない脳みその中で、残念だという思いだけがぐるぐると容量を占めている。まったく、恋ってなんて面倒くさい疾患なのか。
僕はほんの少しだけ早足になって、彼女が曲がった路地をちらりとのぞき見た。まだ彼女の姿が見えるかもしれないと思ったのだ。
路地は細く、両側が住宅に囲まれているので昼間でも薄暗い。左側の生け垣に茶トラが顔を突っ込むのが見えた。
彼女の姿は見えなかった。既に先に見える角を曲がったか、それともどこかの家に入ったのかもしれないと思った。
僕はしばらくそのまま薄暗い路地を眺めていた。
相変わらずセミはミンミンと鼓膜を刺激していて、でもそれはどこか一枚幕を隔てたかのように遠く感じた。びゅうっと路地に風が吹き込んで制服のシャツが背中に張り付く。日向に突っ立っている僕の肌を、照りつける夏の日差しが容赦なく炙った。
僕ははっと我に返って、踵を返して駅のほうへ向かう。
薄暗い路地の奥、うっそうと茂る生け垣の下で、黒いきれいな毛並みの尻尾がゆらりと揺れたような気がした。
「にゃあ」
まん丸いきんいろの瞳がきらりと光ったような気がした。
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