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第2話 ある日の朝
その日の朝、公孫樹の家では、寝ぼけ眼の激が梢の部屋に残された書置きを持って、リビングに現れた所だった。
「哲平兄ちゃん、梢姉ちゃんが家出した。」
哲平はその書置きに目を通した後
「大丈夫、心配ないよ。スケッチ旅行に出ただけだから。」
「スケッチ旅行か、俺も行きたかったな。」激が残念そうに言った。
「後で連絡が来るだろうから、今度出かける時は、一緒に連れて行くように頼んでおいてもいいぞ。」激はその言葉に聞き分けたかのように、素直な様子で朝食のテーブルについて食事を取り始めた。
哲平は綾香にその書置きを見せた後、暫くぼんやりと中庭の公孫樹を眺めていた。激が部屋に戻った頃合に、綾香が切り出した。
「心配?」
「うーん、まあー大丈夫だろう。」
「私達のこと、気にしているのかな?」
「まあ、多少は有るだろうけど、それなりに、あいつには話しはしておいたつもりだけど。まあー暫く様子を見よう。」
哲平は、まだ教会で養父母達と暮らしていた頃に、梢と出かけた貧乏旅行のことを思い出しながら、その時の事を綾香に話し始めていた。
「翌年から、ロシアへの留学が決まっていた夏のことだけど、お金も無かったんだが、バイト代と奨学金の一部を元手にして、梢と貧乏旅行に出かけたことがあったんだ。夜行急行を乗り継いで、青森まで行き青函連絡船の待合室で一泊してから、北海道に入って、バスや列車を乗り継ぎながら気ままな旅を夏休みいっぱい、ぶらぶらしながら楽しんでいた。ユースなんかに泊まると、駆落ちカップルと間違えられたり、資金難になって、牧場でバイトしたりしながらね。」
「ずいぶんと楽しそうなお話ですね。今度の新婚旅行が楽しみですね。」
「まさか、綾香さんと野宿するわけには行かないでしょう。」
「あら、私小さい頃は野生児だったんですよ。南アルプスの麓でね。」
梢はたまたま乗った列車が、秋田行きであったのに気がついて、慌てて途中下車した。
「いけない、このまま行ったら、お父さんの所へ行っちゃう。」だが、下車したものの、周辺の土地勘も無く、人気の少ない、駅の待合室で思案に暮れていたのだが。
「とりあえず、仕事の事を片付けなきゃ。」独り言と共に、携帯電話を取り出し、マネージャー役の泰江に、スケッチ旅行に出る旨をメールした。
「どこに行こうかな…」つぶやきながら、待合室にあったパンフレットを眺めている、少し前から、梢の様子を窺がっていた、女性がつかつかと近寄って来て
「もしかしてお一人?」
「ええ、…」
「女の一人旅同士、ご一緒しても良いかな?」彼女の悪気の無い様子と、梢の気持ちの隙間にふっと入って来た存在の欠片が、梢の心の中に、この人物をすんなり受け入れさせてしまっていた。
「ええ、でも、これから先、当てが無くて。・・・ただ、ぶらっとスケッチ旅行に出てきたんですけど。」
「ほう、なるほど、それで麦わら帽子とスケッチブックな訳ね。何処かの美大生?」
「今は休学して、絵本を書いてます。」
「絵本作家!ふーん、私ね、S美術館の文芸員をやってたの、先週まで。」
「はあー。」
「一寸訳ありで、仕事止めて、一人旅に出たんだけど、独りも何だか飽きてきちゃってね。迷惑なら言ってちょうだい。」
「いいえ、私も、心細くなっていた所なんですけど。」何時もなら無口な梢が、彼女の前では、すんなり口を開く事が出来た。
「あ、自己紹介がまだでしたね。私、山下京子って言います。宜しくね。」
「はあ、私、山本梢です。」
二人は、下車した駅からそう遠くない、京子の馴染みのジャズバーに足を運んだ。
梢は、目の前に居る人物を眺めながら、ふと誰かの面影を思い出していた。何処事無く、綾佳さんに似ている様な。今回の旅の、その切っ掛けの一端を作った人物でもある。兄や梢、それに突然飛び込んできた、梢の弟の檄、それらを十把一絡げに受け入れ、加えて大いなる愛情を注いでくれる公孫樹の家の大家様であった。そこまでは、梢にとって、感謝すらすれ違和感を持ついわれなど全く無い状況なのだが、何故、その綾佳が、兄と結婚してしまったのか。大学の準教授となった兄と、梢の軌道に乗り出した、絵本作家の仕事、それぞれの経済力があれば、この先もそれなりに、血はつながっては居ない兄弟同士で暮らすには十分だろうと思っていた。まさか、兄が昔の政略結婚の様な事を考えた訳でも無いだろうし、何か、割り切れない思いが、朝霧の様に頭の中に立ちこめていた。
「早く晴れてくれれば、すっきりするのに・・・」思わず漏らした言葉に
「何が、すっきりするの?」京子が尋ねた。
「あ、ご免なさい、独り言です。あーそう言えば、私の親しい方、実は最近、兄の花嫁になった方ですが、その方も山下て言う名字なんです。」梢は取り繕う様に答えた。
「山下なんて名字は平凡だからね。ちなみに、山下なんて言う人?」
「綾佳さんて言います。」そこまで、話が進んでしまうと、京子の好奇心と巧みな話術は、梢の心中に有る、もやもやの原因をいとも簡単に手繰り寄せてしまっていた。
「ごめんね、一寸深入りした事を聞き出しちゃったかな。」京子は、梢の顔を見ながら言った。
「いいえ、人に聞いてもらって、何だか少し霧が晴れた気がします。」
「それなら、良いわ、多少でも役にたてたかな・・・でも不思議な縁ね、そんなイキサツを抱へた、似た様な人物に、旅先で偶然出会うなんて。」京子は、カウンターに片肘をついたまま、低いトーンで言った。
「私もね、有る先生、物理学者なんだけど、好きになっちゃってね。でもどうにも成らなくて、逃げ出して来たて言うのが本当の所かな。」
「ええ、物理学者ですか。兄もそうですが。」
「ほう、それはますます奇遇だね。ほんと何考えてるか分かんないよね、ああ言う人間てさ、たぶん頭の中では、訳の分からないへんてこな理論やら方程式を解いているのよね。」
京子が溜息まじりで言った言葉に、梢も共感していた。
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