第1話 君と夜の逃避行

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「ねえ、六藤ちゃんさ、帰りたがってるでしょ」 「え? ……あ、あはは……何の話ですか? そんな事……」 「いいって、無理しなくて。実は俺もダルくてさ~。二人で抜け出さない? こっそり」  耳元で囁かれ、ゾッと背筋に悪寒が走る。私は無理矢理笑顔を繕って彼をいなそうとするが、執拗に迫られてしまいとうとう壁際へと追い込まれた。  他の飲食店と共同で使用しているらしいこの店のトイレは、店外の奥まった通路の先にある。そのため他に人影はない。逃げ場を失って両手を握り取られた私は、ずいと迫る男に息を呑んだ。 「あれ? もしかして怯えてる? そんなに怖いかな~、俺」 「……い、いえ、そんなんじゃ……」 「だったらいいじゃん、一緒に抜け出そ」 「あ、あはは~……だ、だめですよ、同僚に悪いし……それに、あの……私、この後用事が……」  出来るだけ穏便に済ませようと、適当な理由をこじつけて迫る体を押し返す。しかし彼は強く手首を掴み、その力の強さに思わず「痛っ……!」と声を発してしまった。すると、その瞬間。  ガンッ! と男性用トイレの扉が突然乱暴に開き、私に迫っていた男へと勢いよくぶつかる。 「いっ!?」 「……!?」  ごんっ! ──その場に響いた鈍い音。扉は男の横っ面を直撃し、同時に密着していた体も離れた。  私は何が起きたのか一瞬分からず、愕然と見開いた瞳を瞬くばかり。しかし硬直して言葉を失う私の腕は、すぐに別の手に掴み取られた。  よたつく体を支え、キャップを被った金の髪が視界で揺れる。まるで檸檬みたいなその色に、胸の奥で震えたのは強い既視感。 「走って。早く」  低い声が囁き、返事を紡ぐ間もなく強引に腕を引かれた。無意識のうちに動いていた足は細い通路を走り抜け、階段を駆け下り、夜の繁華街の人波に飲み込まれる。  私はわけも分からないまま、手を引く青年の背中をひたすら追いかけた。  ああ、今日、ヒールのないパンプス履いてて良かったな──そんな緊張感のない事を頭の隅で考えながら、私と彼は夜の街を駆け抜け、光で満ちる路地の奥へと消えたのだった。
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