遺の聲 ~ゆいのこえ~

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 教えられたアパートに着くと、依頼主が出迎えてくれた。  電話での声から予想した通り、年の頃は二十代後半。フェミニン系とでも言うのだろうか、柔らかく清楚な恰好をした女性だった。節々に経年劣化の見られる古い木造アパートには似つかわしい雰囲気だが、彼女はここに住んでいるわけではない。あくまでも特殊清掃の依頼主としているだけだ。    俺は挨拶とお悔みの言葉を済ませると、早速仕事の話を切り出した。 「特殊清掃と遺品整理のご依頼ということで、早速お部屋の中を拝見させていただきます。十分ほどで見積のほうを出せると思います。ご納得して頂けましたら、すぐにでも作業に入れますので」 「では、すぐに作業に入ってもらえますか」 「え?」 「見積はいいからすぐに作業をしてくださいって言っているんです。実績からあなたの会社のことは信用していますので、だからすぐにお願いします。鍵は空いています」    有無を言わさぬ口調だった。  こちらを信用してくれているのは嬉しいが、金額を教えずに作業に入るのは躊躇(ためら)われる。見積書は作成しないが、口頭で金額を教える旨を伝えると、彼女はそれでいいと頷いた。    俺は防護ゴーグルと防毒マスク、そしてゴム手袋を装着する。作業用の靴、及び服については最初から身に着けているので、あとは部屋の中に入るだけだ。  俺はドアノブに手を掛ける。電話で依頼主から聞いた話では、二〇二号室の住人が亡くなったのは二週間前。幸いにも残暑はとうに過ぎ秋風が心地よい季節ではあるが、遺体が腐るには充分すぎる日数が経っていた。    凄惨さを物語る血痕。べっとりとこびりついた血液と体液。散らばった毛髪、あるいは遺体の一部。充満した強烈な腐敗臭。その死臭が呼び寄せるウジムシやハサミムシ、ハエなどの虫や細菌。  現場にはそれらのいくつかが残っているだろう。しかし十年もこの仕事を続けていれば胆力も鍛えられ恐怖に感じることはほとんどない。それでもたまに現れる〝あれ〟にはドキリとさせられることがあるが。    ――最後に現れたのは三週間前の仕事だったな。果たして今日は現れるのだろうか。 「どうしたんですか?」  怪訝な表情の依頼主。 「いえ。仕事の流れを確認していました」 「本当に迷惑ですよね」 「はい?」 「アパートで自殺したことです。大家さんやほかの住人や近所にだって。それに、ずっと疎遠だったのに身内だからといって電話が掛かってきた私にだって。わざわざ遠くから来て後始末するこっちの身にもなってほしい。本当に迷惑。そうは思いませんか?」    露わとなった怒りを淡々と放出する依頼主。その気持ちは分かるが、立場上、頷くことはできない。肯定はすなわち、全く知らない故人を侮辱することになるからだ。それに気づいたのか、依頼主は申し訳なさそうな素振りを見せた。 「では、仕事に入らせてもらいます。料金を教えますので少しだけお待ちいただけますか」 「分かりました。お願いします」    俺は中に入るとすぐにドアを閉める。腐乱臭が外に漏れないためだ。  本音を言えばドアは全開にして、一刻も早く霧散させたいところだが、死臭は腐った生ごみの臭いを遥かに超えた激しい悪臭だ。ゆえに少しでも外に漏れれば風に流れて誰かの眉間に皺が寄ってしまう。  玄関ポストには外側からガムテープが張られていたので、あとは窓さえしっかり施錠されていれば臭い漏れに関しては大丈夫だろう。    俺は電気を付けると、部屋の中を玄関から眺める。  間取りは1K。しかしキッチンと部屋との間に仕切りがないので、部屋の奥までが良く見えた。  その直線上は比較的綺麗だが、キッチンに目を向けると、流しの中に使用済みの食器やコンビニ弁当の容器などが山積みにされていた。ガスコンロの上には二つのポリ袋があり、分別されていないゴミが溢れかえっている。そのゴミ袋の中で黒いものが動いた。ゴキブリだろう。  安全だと判断した俺は靴を脱ぎ、フローリングに上がる。そのままキッチンを通り過ぎると部屋の前に立った。  そこかしこに服が落ちている。雑多に積まれているもの。テレビに掛かっているもの。脱ぎっぱなしかのようなもの。ハンガーに掛かったまま落ちているもの。中には丁寧に畳まれているものもあった。開けっ放しのクローゼット中にも大量の服やゴミ、アパレル系と思われる雑誌が散乱していた。    右に視線を向けるとベッドと机がある。クラシカルなアンティーク調で故人のセンスの良さが伺えるが、キッチンやクローゼット同様のゴミの山がその良さの大半を奪っていた。  そのゴミはベッドを中心にするように周囲に広がっている。故人の生活の中心がベッドであったことは一目瞭然だ。尿や便の跡が見受けられないことから察するに、重度のセルフネグレクトというわけではなかったようだ。  皮肉なことに、だからこそ自殺などという能動的な行動を起こしてしまったわけだが。    窓の施錠を確認すると、キッチンへ戻る。そして流しの反対側にあるドアと向き合った。  その奥は故人が自死を決行した現場、ユニットバス。当然、遺体は回収されているのでないが、それ例外はそのままの状態で残されている。俺は一つ大きく呼吸をすると、ゆっくりとドアを開けた。    眼前に広がる酸鼻な光景。予想通りの死の痕跡がそこにはあった。  怖気づくことはないが、慣れるものではない。込み上げる不快感は正常な感覚であり、何も感じなくなったらそれは人間ではない別の何かだろう。  俺は手を合わせて黙とうを捧げた。 「中はどうでしたか?」    防毒マスクを取り、深呼吸をしたところで依頼主が聞いてくる。  多くの依頼主と同様に現場の状態が気になるようだ。先ほどのやり取りもあり作業を急かされると思ったが、そうではなかった。  俺は正確な料金を提示するというのもあり、見たままを伝えた。  依頼主は顔をこわばらせて聞いていたが、取り乱すことはなかった。ある程度、状態を予想していたのか、あるいは自死という衝撃のあとでは今更驚くことではなかったのかもしれない。 「もう一度確認したいのですが、遺品は全て廃棄でよろしいですね。現金はもちろんのこと、免許証や保険証、保険証券などの、死後の手続きに必要な書類を見つけたらお渡しいたしますが」 「はい。それ以外は何から何まで全て廃棄してもらって構いません」 「分かりました。のちほど私の会社の別の人間が回収しにきます。それと作業には時間が掛かりますので別の場所に移動されても構いません。終わったらこちらから連絡します」 「……あの人の全てが嫌だから」  ――え?    部屋を睨みつける依頼主。  俺は依頼主の故人への感情を、この瞬間はっきりと理解する。  特殊清掃を生業として何が辛いと言えばもちろん現場の清掃だが、もう一つある。それが依頼主の故人への憎悪だ。たいして親しくもないのに後片付けをさせられる不満が憎悪へと増長してしまうのだろう。気持ちは分からなくもないが、その感情の形を強制的に傍観させられるのはやはり辛かった。    本来なら逆だろうが、俺は逃げるように部屋の中へと入る。故人への口撃をこれ以上聞きたくなかった。    虫を含めたゴミの処理を終えると、消毒液をユニットバス、及び部屋中に散布する。  死臭の主な原因は、腐敗の過程で細菌がタンパク質を分解して出す物質だ。その細菌を死滅させるのに有効なのが二酸化炭素を主成分としたこの消毒液なのだが、こうして臭いの原因を取り除いてようやく本格的な作業に入ることができる。  靴を履いたままユニットバスに入る俺は、愛用のスクレーパーを取り出す。時間が経って固まった体液や脂、血液を削りとるためだ。ある程度、スクレーパーのみで作業を進めたのち、残った汚れはスポンジで除去。それを一心不乱に黙々と二時間ほど続け、ようやくユニットバスから死の痕跡が消えた。    いや、天井の奥に血痕が残っている。俺は手を伸ばしその血痕をふき取った。  あとは再度消毒液を噴射して、臭いが完全になくなったことが確認できれば特殊清掃は終わり。遺品整理の前に外の空気を吸っておこうと思考を過らせ、ユニットバスから出た刹那、背後から気配を感じて身を硬直させた。  無論、人ではない。ユニットバスに俺以外の人間がいるわけないのだから。   ――現れた。〝あれ〟が。  作業に没頭していて忘れていたが、今日の現場には出てきたようだ。  俺はゆっくりと振り返る。    便座に座る女性がいた。  年の頃は二十代前半から三十代後半。間違いなく依頼主の姉である故人だろう。  淡い光を帯びた彼女は、依頼主に似てとても綺麗な女性だった。セルフネグレクトに陥り、自死を選ぶとは到底思えないほどに。しかしそれは大きな間違いだ。どんな人間であろうとも些細なきっかけで人生を躓き、転落してしまう可能性があるのだから。    故人は便座に座りながら両手で持つ写真を眺めている。角度的にはっきりとは視認できないが、満面の笑みを浮かべる二人の少女が写っているように見えた。  それはおそらく――。  ふと、故人の口が動く。愛おしそうに、それでいて悲哀の表情を浮かべて。  その瞬間、故人が霧となり、やがて掻き消えた。  やるべきことを終えて外に出ると、依頼主がいた。  聞けばどこにも行かずにここで待っていたらしい。抱く必要のない罪悪感を覚え、俺は思わず「清掃の方は終わりました。すいません。お待たせしまして」と口にした。 「いえ。勝手に待っていただけですので」 「あとは遺品整理ですが、もうすぐ会社の人間が来ると思います」 「分かりました。あの……」 「はい?」 「お姉ちゃんは……いえ、なんでも、ありません」    依頼主は口を閉じると、俯いた。  その声からは、さきほどの嫌悪感や侮蔑を内包させたような怒りは感じられない。代わりに何か別の感情を思わせるものがあった。〝あの人〟から〝お姉ちゃん〟に変わっているのも、そこに付随するものなのだろう。    言うべきがどうか悩んでいた。渡すべきかどうか逡巡していた。しかし、己の揣摩臆測がもしかしたら正しいのではないかとの考えに傾き、決意した。 「柴咲さん」  俺は依頼主を性で呼ぶ。 「え? はい」 「今から私が述べることを、戯言だと思って聞いてほしいのです。何分、突拍子もないことなので」 「はぁ」  その反応を肯定と捉え、俺は先を口にする。 「私の仕事は死の痕跡を消す特殊清掃ですが、別の言い方をすれば死後を看取る者なんです。故人ではなく故人の死後を。死後であるゆえに故人から何かを引き継ぐことはできませんし、命の尊さや儚さを感じることはできません。その変わり私は、故人が亡くなった場所から、その故人が残した想いをとても強く感じることがあるんです」 「故人の、想いですか」 「ええ。そのほとんどが生前、あるいは亡くなる直前に故人の心を占めていた人間に対するものなんです。そして私は、その想いを強く感じるとき見えてしまうんです。故人の姿が」 「姿って、幽霊とかですか?」    眉根を寄せて訝しむかのような依頼主。  当然の反応だ。しかし、前以て戯言だと思って聞いてほしいと言ってある。それに故人の残された聲を届けるのが、死後を看取る者の責務だとも思っている。だから俺はこのまま話を続けた。 「はい。それで今日、見えたんです。ユニットバスの清掃が終わったあとに。便座に座っている柴咲さんのお姉さんが。彼女は一枚の写真を見ながら、おそらくあなたに対しての想いを口にしました。 〝ゆな、こうかんこ、できなくてごめんね〟――と」    そのとき、依頼主が口を押さえて両目を見開いた。その瞳がじんわり赤くなったかと思うと彼女の頬を涙が伝う。それは止めどなく溢れ、肩を震わせうずくまる彼女の「お姉ちゃんッ」という叫びが、嗚咽に交えて耳に届いた。  想いが伝わった瞬間だった。    依頼主が深々と頭を下げているのがサイドミラー越しに見えた。  両手で持っているのは、俺が手渡した写真の入ったフォトフレーム。それは机の奥にゴミに紛れて置いてあったものだ。個人が手にしていた写真が、もしかしたらどこかにあるかもしれないと遺品整理の際に探したのだが、廃棄の前に見つかって良かった。    依頼主は受け取った写真を見詰めながら、俺にこう吐露した。 「幼い頃は、この写真のようにとても仲が良かったんです。でも私が高校生のときに大きな喧嘩をして、それからお互いに距離を置くようになって、その溝は結局うまらなかったんです。最初はそれが悲しかったんですが、お姉ちゃんのせいと思っていたのもあって、どんどん憎たらしくなって嫌いになって。そんなこともあって、お姉ちゃんが大学を卒業して家を出たあとのことは良く知らないんです。ファッションデザイン系の仕事に就いたって話は親から聞きましたけど。でもなんで自殺なんて……。仕事、うまくいっていなかったのかな。アパレル業界とかコロナの影響で大変みたいだから」    俺は黙って聞いていた。  遺書がない以上、依頼主が思った通りの理由なのか、はたまた別の要因なのかは分からない。しかし自殺を選ぶほど追い詰められていたのは事実。そして自殺の理由を憶測で口にするほど、俺は無遠慮な人間ではなかった。    別の知りたいことがあったが、それを聞くのも不躾の範疇だろうと喉元を通らせないでいると、心中を察したかのように依頼主が教えてくれた。 「〝こうかんこ〟というのは、洋服を交換するという意味なんです。いつかお互いがデザインした服を交換して一緒に着ようねって、幼い頃に約束したんです。そんな約束、私はとっくに忘れて服とは関係ない他業種で働いているのに、姉はまだ覚えていたんですかね。こんな薄情な妹との約束を果たそうとしていたんですかね。――だったらなんで」    特殊清掃の仕事は人の死で成り立つ商売だ。  しかし、遺体を綺麗にしてあの世に送り出す葬儀屋とは違う。  自殺、病死、餓死、心中、殺人の被害者などの絶望や孤独や恐怖、憎しみや悲しみの残った生々しい死をまざまざと見せつけられる、壮絶な裏方だ。    とてもじゃないが、好き好んでやる仕事じゃない。何度も止めたいと思った。なのに結局俺はこうやって今日も今日とて仕事の車を運転している。だから理由は至極簡単なものなんだと思う。  故人の死後を看取りたい。  遺の聲があるなら届けたい。
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