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幸いにも僕の怪我は大したことなく、念のため受けたCTスキャンでも、特段の異常は見当たらなかった。頬は腫れるわたんこぶは出来るわ、外面は見るも無惨だが、中身が無惨にならなかっただけ幸運と思おう。
診察代は薔子さんと僕で折半した。最初は薔子さんが全額払うと主張していたのだが、僕のことなのに僕が金を出さないのはおかしいので、説得の末に割り勘まで持ち込んだ。
男のくせにと怒らないで欲しい。これでも頑張った方なのである。
園に置いてきた自転車は、診察を受けている間にメイドのベロニカさんが回収したとのことで、今は薔子さんの家にあるそうだ。
迎えにやって来たベロニカさんの運転で、僕たちは薔子さんの家へと向かった。
「それは災難でございましたね」
事の次第を伝えると、ベロニカさんは僕を気遣うように顔を曇らせる。常識人の反応だ。僕の頬に貼られたデッカいガーゼは、さぞ不格好に見えているだろう。
「ほんと災難ですよ。薔子さん庇って殴られたって思ったら、当の本人が犯人を蹴り倒してるんですもん。僕の存在意義って何だって話です」
珍しく頑張って格好つけたかと思えば、空回りして痛い目に遭う。いつものパターンである。華麗に敵を薙ぎ倒し「大丈夫ですか、薔子さん」とクールに手を差し伸べるなど、夢のまた夢のまた夢。むしろ手を差し伸べられる側になったのは、いかがなものか東雲伊吹。
「綺麗な薔薇には棘があるのさ。迂闊に触れて怪我をせぬよう、君も気を付けたまえ」
後部座席、すなわち僕の横に座った薔子さんが、得意気に口元を緩めて言った。
「キックボクシングやってるのは知ってましたけど……まさかあんなに強いなんて思いませんでした。殴られ損じゃないですか? 殴られ損」
「否定は出来ないね。ははははは!」
そんな笑わないでくださいよ……痛かったんですから……。
「だがまあ、あまり卑屈になるな、青年」
「……薔子さん?」
「君は私を守ろうとしてくれた。その意思に、私は価値を感じたよ」
こういう時に限ってやけに真っ直ぐで、恥も躊躇いもなく放たれた言葉は、耳を通ってしっかりと僕の胸に届いた。
「ありがとう、伊吹」
おもむろに僕の頭を撫でる。心がキュンとなって、それからポカポカしてきた。これなら何度殴られてもいいかもしれない。
「……薔子さんだって、大の男が相手なのに、怯みもしてなかったじゃないですか。ずっと堂々として、しかも最後は一撃でぶちのめしてて。ズルいですよ。カッコよすぎます」
「――っ、そうか! 自明のことでも、改めて言われると嬉しいものだな! 格闘技を嗜んでいて正解だった」
毎日、かどうかは知らないけど、日常的に蹴りを練習してれば、そりゃ強くもなるわけだ。そこらの男にはまず負けないだろう。負ける絵面が見えない。
「まあ、ベロニカは私より強いのだがね」
え?
「お戯れを」
ええ……?
嘘か真か分かりにくいやり取りに戸惑っていると、やがて前方につるバラの柵が見えてきた。
薔子さんの家だ。自転車を回収したら帰るつもりだったけど、薔子さんはそのまま僕を家の中に案内した。
「ティータイムの時間だ。急ぎの用事も無いのだろう? しばしくつろいでいきたまえ」
面と向かってそんなお誘いを受ければ、僕としては断る選択肢などないわけで。
「では、紅茶とスコーンを用意して参りますね」
「待て。今日は私が淹れよう」
ベロニカさんを引き止めて、薔子さんが家の奥に姿を消す。応接間で待つこと数分後。愛猫グレートブリテンを引き連れ、薔子さんが悠然と戻ってきた。手にしたお盆には二人分のカップと、小さな陶器の小瓶、若草色の液体を湛えたガラスポットが乗せられている。
彼女はそれを机の上に置くと、手慣れた動作で液体をカップに注いた。仕上げに小瓶から蜂蜜を一匙、液体に溶かして僕に渡してくる。
グレートブリテンに横から凝視される中、カップに顔を近付けてみると、そよ風が鼻の奥を吹き抜けていくような、何とも言えないすがすがしい感じがした。
「これ……タイムですか?」
「そうだ。良い香りだろう? 私の庭で、カモミールやオレガノとあわせて何株か育てているのだ。シソ科の多年草で、西洋料理にはかかせないスパイスの一つだね。抗菌作用や防腐作用に優れることから、かつては薬として重宝された歴史もある。ベロニカが料理に使うほか、こうやってハーブティーにして飲んだりするんだ。ちなみにだが、ハーブティーには大きく分けて二種類の淹れ方があるんだよ。乾燥した葉から抽出するドライハーブティーと、摘み立ての葉を用いるフレッシュハーブティー。今回は後者だね。ドライハーブティーの方がハーブの成分をより効果的に摂取出来るのだが、香りを味わうならフレッシュハーブティーが適任だ。時期的にも悪くないということで、今回はフレッシュにさせてもらったのだがね」
「へぇ……ハーブティー飲むの初めてなんですけど、不思議な香りがしますね」
「そうだったのか。お代わりはいくらでもあるぞ」
「取り敢えずこれ飲んでからにしますね。……でも、どうしてタイムなんですか? ティータイムとかけたダジャレとか?」
「んな訳ないだろう。君は正気か??」
「あ、すみません……」
ちょっとした冗談のつもりで言ったら、全然通じなくて僕はダメージを受けた。迂闊に触れると棘で怪我する。さっき注意されたことだ。早速だ。
「タイムはね、昔から勇気や気品の象徴であるとされてきたんだよ。古代ローマ帝国の女たちは、戦いへ赴く戦士へ向けて、タイムの小枝をお守りとして渡したという。中世においても、『あなたからタイムの香りがする』というフレーズは、男性にとって最高の賛辞だった。現在でもタイムの花言葉には『勇気』や『気品』といった言葉があてられているんだ」
ということはつまり……?
「ここまで言えば分かるだろう、馬鹿奴」
「……口に出すには恥ずかしいんですけど」
頬を赤くしながら僕がぼやくと、薔子さんは「くっくっく……」と喉を震わせて笑った。
「君にはシクラメンの方がお似合いだったかな?」
「出ましたね花言葉ランゲージ。通訳をお願いします」
「『恥ずかしがり屋』という意味だ。今の君を表わすに相応しい花だと思うがね」
ウインクは、相も変わらず両目を瞑った下手くそな代物。
同じ光景を見たのは、二週間前のばら祭。あの時と比較して、彼女との距離も少しは縮まった気がする。
でも、物足りない。
あなたのことをもっと知りたい。
まだまだ足下にも及ばないけど――いつか一緒に、好きな花について、彼女と対等に語り合うような関係になれればいい。
そんな密かな夢を抱いて、僕は差し出されたハーブティーを一口啜った。
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