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「課長、来期に打ち上げる例の広告ですけど、ファミリー層をターゲットにしようと思うんです。このコンセプトがですね、……」
決裁を取りに来た部下の説明の声が、頭に入ってそのまま抜けていく。
広告に挿し入れられたイラストの中では、ポップなタッチと色合いで描かれた夫婦と思しき男女が笑っていた。
笑顔を単純化した曲線一本の、細い三日月のような眼で。
僕は自分と妻のことを、フィクションで頻出するような、至って普通の夫婦だと思っていた。
普通に連れ添い、日中は自分の成すべき仕事や役割をそれぞれこなし、同じ家に帰って寝食を共にして、また次の日を迎える。
そこに愛情表現などなかったが、それも、互いのことを夫婦として認め合っていることの現れだ。
「ありがとう」とか「愛しているよ」とか、そんな甘っちょろい言葉をかけあう時期なんぞ、とうの昔に過ぎ去った。長く連れ添った夫婦なんてそんなものだろう。
しかし、その普通の夫婦像の中には、妻に消息を絶たれた中高年の男など見かけることはない――。
職務で扱う広告にいちいち入れ込むような心は、ずいぶん昔に置いてきたはずだった。
まだまだ若手だったころ、妻が「そろそろわたしたちも子どもがほしいね」とつぶやいていた時代でも、仕事で親子の写真やイラストを目にして何かを思うことはなかった。
休日にふたりで出歩いた先で、道端や店内を走り回る子どもを見た妻が、微笑ましいような、羨ましいようなことを言ってくることも、一度や二度ではなかったが、そのたびに軽くあしらってばかりだった。
「まぁ僕も君も、仕事が大変なときだしさぁ。焦ることもないだろ。それより最近、そっちは仕事の調子どうなんだ? 独立したばかりで大変だろうけど、在宅で自分のペースで働けるのは羨ましいよ」
そうだ。あのころだって僕は妻と会話をしていたようで、その実、妻のプライベートな心配事はそっちのけで、仕事の話しか聞く耳を持とうとしなかった。
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