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家に帰ると、妻が姿を消していた。
妻だけではない。彼女の衣類はもちろん、ドレッサーやお気に入りのティーカップ、彼女が使っていた布団までもがなかった。
僕が仕事で留守にしている間に、身の回りのものを運び出したらしい。
妻の気配を感じさせるものすべてを失った部屋は、奇妙に歯抜けしていて、その違和感の中で僕はうろたえた。
なぜ妻は、何も言わずに出て行ったのか。
いや、実のことを言うと心当たりはあった。
僕たちは一緒に住み始めて二十年になるが、夫婦として籍は入れていなかった。
妻が在宅勤務で仕事をこなす自立した女性だということもあり、僕たちは形式としての結婚にあまり興味がなかった。
諸々の手続きは面倒だし、子どもができれば入籍すればいいかと軽く構えていた。
しかし、いつまでたっても僕たちに子どもはできなかった。
妻がそのことで通院しているらしいと気付いたのは、十年ほど前だっただろうか。
そのころ既にフリーランスで安定した収入のあった妻は、会社勤めの僕とは健康保険が別だった。
だから、台所の流しのそばに置き去りになっていた、産婦人科の処方薬の紙袋を見つけるまで、僕は妻の通院を知らなかったのだ。
産婦人科の「産」の文字に少し居心地の悪さを感じたのは、夜の営みを拒絶される日々が長く続いていたからかもしれない。
それで僕は、置き忘れた薬を取りに来た妻に、つい嫌味な言い方をしてしまった。
「なに、わざわざ病院なんか行って。今さら妊娠希望かよ」
「んー、ちょっとね」
それ以上触れるなとばかりに牽制してくる妻を、追求する気は起きなかった。
そのまま放置しているうちに、僕も彼女も五十代が目前に見えてきた。
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