第一章①おはようと言わせて

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 奴――高田は小学校の同級生でもあり、いじめの主犯格だった。僕を障害者呼ばわりしたのも奴だし、教科書を捨て始めたのもだ。 中学二年生の今でも、やたらとちょっかいを出してくる。ガキの子供心がまだ抜けていないようだ。  別に怒りなど、とっくにない。奴に僕の苦しみが分かってたまるか。脳に言葉の羅列が浮かんでいても喋れない悔しさを理解できる人は吃音持ち以外にはいない。    高田がズシンズシン、と大柄な体を揺らしながら近づいてくる。動物に例えるならクマだ。巨漢で凶暴なところがそっくりである。  奴は僕の机の端にゆっくりとゆっくりとペンを置く。汚い物を見るような目で僕を見てくる。僕が黙っていると、顔を近づけて腫れぼったい目で睨んでくる。正直とても怖い。 「あれぇ、折角ペンを拾ってやったのにお礼も言えないんですかぁ?」ニヤニヤしながら言ってきた。    奴は勿論、僕が吃音でア行が言えないことは既知だ。その上で追及してくるから本当に嫌な性格である。僕は奴と目を合わせないように、さらに俯いた。  周りはやれやれまたか、という風に完全無視している。変にちょっかいを出すよりその方が有り難いが。 「おい。なんとか言えよ障害者!」バンバンと机を叩いて脅してくる。  何か言いたいのは山々だが、残念ながら「ありがとう」はア行だし、「高田」もタ行である。でも何か言わなければならない。 「すみません」と僕は消え入るような声で言った。奴は満足して、鼻息をフンと荒くしながら自席に戻る。周りが僕をチラチラと盗み見てくるが、気にしてないかのように平然を装う。    分かってはいたが、こういう事態に陥ると必ず自己嫌悪に苛まれる。僕はうつむき、履いている上履きをじっと見つめて涙を堪えた。  初めの音、特にア行とタ行から始まる言葉を言おうとすると息が詰まる。  それはまるで、セメントを口から肺に流し込まれたように苦しくなる。胸に手をやり、掻きむしって声を出そうとしても空回りするばかりだ。それでもさらに言葉を発しようとすると、酸欠で意識が飛びそうになる。  ネットで同じ悩みを持つ人を探してみたが、僕も含めて共通しているのはサ行が比較的言いやすいことだ。多分息を吐くようにさらっと言えるからなのだろう。  だから僕は面倒事があると、すぐにサ行に逃げてしまう。なぜならサ行には「すみません」があるから。 「ありがとう」ではなく、「すみません」しか言えない自分が情けなかった。手をグーにして、思い切り爪を立てて握りしめる。  あぁ、自由に喋れるならどんなに楽だろうか――何回考えたか分からない幻想を頭の中でグルグルと巡らせる。手の肌が切れて、爪の隙間に血が付着していた。
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